月別アーカイブ: 2015年5月

宮崎に行って思った「地方創生」の競争感は健全なのか、ということ

自然保護系の仕事も担当していて、その絡みで、宮崎県で開催されている「みどりの愛護のつどい」に参加した。
参加と言っても一般参加なので行事のどうこうには感慨もないのだが、式典のあちこちではさまれる、宮崎の高千穂を中心とした古代をモチーフにしたものであるとか、宮崎の飫肥藩の領主であった(らしい)伊東家の戦勝祈願の舞とかをみているうちに、今、日本中の公共団体の行動に大きな影響を落としている「地方創生」の競争感について、ちょっと疑問を感じた次第。
「地方創生」は、個人的な解釈で言うと、地方がそれぞれ目標(数値)を立てて、おのおのの地域活性化の知恵を絞ろう、そのために国もお金を出して応援しようということで、それそのものは良いことだと思う。
今回ちょっとガリッときたのは、その動きの中に、どこそこに負けるなとか、「地方創生で一番に」といった意識が、地方公共団体のそこかしこに出てき始めていることである。
たしかに、地域活性化というのか限られた観光客やら都会に住む人の感心を取り合うことにであるから競争の色合いが強いことは否定しないし、競争のない活動は、多くの文化活動であるような自己満足による沈滞を招くであろうことは異論ない。
ただ、日本海側の辺境に住まう身として思ったのが、宮崎の高千穂の伝統文化と日本海沿岸のの伝統文化が果たして、どちらが一番、といったことを競わせるべきものなのか、ということ。ましてやそこへの国家的な支援がメルクマールの良し悪し、あるいは東京を核とする中心論的な価値観でランク付けをしてしまって良いのかな、というところである。
なんといっても高千穂と山陰のどちらが云々といっても勝負や優劣をつけるなんざ野暮の極みではありませんか。
江戸期、それぞれの富貴の度合いはあれど、三百諸侯がそれぞれに誇りを持ちながら、それぞれの「御国」を大事にしてきていたような印象をもっていて、地方創生の基本は、こうした身近な「御国」の大切さ、愛おしさを踏まえながら、「御国」を元気にするよう頑張っていく、ということが基本で、それぞれの頑張りの順番をつけていく、といったことではないと思うのだが、どうであろうか。
ただ、いざ一線上に並ばされて、「おのおのの地方と良さをみせてみい」と天下人に言われたら、思わず一番槍を競ってしまうのが勤め人の性かもしれないですね。

本日は宮崎行き

仕事柄、あまり九州に来ることはないのだが、珍しく本日は宮崎行き。
九州新幹線ができたとはいっても、我が辺境からはやはり遠く、大阪伊丹空港からの出発。
予約のときになぜか座席が少ないな、と、思っていたら、なんとプロペラ機でありました。しかも、いろいろあったDHC8-Q400。事故のことはあれどプロペラの名機と思います。

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地方が望んでも得られない「ガード下」という都会的なアイテム

ガード下っていうのは、どことなくうらぶれた都会の風味があって、辺境に住む身にとっては、きらびやかなビルやショッピングモールよりも、望んでも得られないレアアイテムのような気がする。
そんな「ガード下」のことを分析、レポしたのが小林一郎『「ガード下」の誕生ー鉄道と都市の近代史』(祥伝社)である。
構成は
Ⅰ ガード下とは何か?
 どうやってガード下ができたのか/歯牙にもかからないガード下研究の現状/ガード下のイメージ/ウラ町イメージの理由/ガード下の魅力/ガード下を法律で見ると/何に使われているのか/どのように使われているのか/時代区分で見るガード下
Ⅱ 生命力あふれつウラ町・ガード下の誕生
 昭和のアーチ駅舎とブリキ住宅/ドイツの香り漂う、有楽町のガード下/辰野金吾の万世橋駅とガード下/ヤミ市から町を興したアメヤ横丁/理念の旗を振り、ガード下から立ち上げた秋葉原電気街/流行の先端を演出する場所/巨大なキャンティレバーは歴史の回廊/ガード下にカモメが舞う隅田川/ガード下から生まれ変わる町/ミヤコ蝶々も暮らした大阪・美章園ガード/ヤミ市を起源に一キロ続く商店街/泉も神社もある阪神・御影ガード下
Ⅲ 高度経済成長に誕生したガード下 ー その再生とオモテ化
 光が眩しい洞窟の魅力/住んでみたい町No1。自己完結型をめざす吉祥寺
Ⅳ 新時代に挑むガード下 ー ホテル・保育園
 パリのパサージュが二一世紀東京・赤羽のガード下に誕生/机上で進めるガード下環境/夢の国のガード下は、リゾートホテル/人身売買バイバイ作戦と黄金町コンバージョン
おわりに ー 庶民のエネルギーがあふれるガード下と、環境整備されるガード下
となっていて、ガード下の誕生、利用形態から、東京を中心とした実際のガード下のルポである。もともと「・・下」というからには「・・」にあたるウワモノがないと始まらないわけで、それが鉄道という人口集積的で、しかも通過的なアイテムであることがガード下の
理由はどうであれ、ガード下利用が始まって以来、ガード下は、町の中心にあるにもかかわらず、ウラ町としての印象とイメージに包まれ、一種独特のガード下文化を生み出し、現在では世の中のためになる社会的な使命を担う空間利用も次々と誕生してきている(P32)
という商店街やビジネス街などと違う都市的なでありながら、すさんだ風情を身にまとっている所以であろう。
しかも、万世箸架道箸から神田駅まで RCなのだが表面に煉瓦を張っているところにみられるように
モダンデザインを追求していくと、前近代的な過剰な少食を主体とした近代建築は否定されるべきふだという結論に達する
だが、このまがい物が結構素敵である。鉄もセメント自体もギリシャ・ローマ時代からあったものだが、産業革命以降、新たな素材として開発された。その新素材を巧みに用いながら鉄でアーチを造り、セメントで巻き立て、旧来の素材を用いて外見上アーチのレンガ造りに見せかける、というのも悪くない(P106)
というしなくてもいいような言い訳をさせてしまう「いかがわしさ」を感じさせるのが「ガード下」の「ガード下」の面目躍如というところか。
ただ、個人的な感傷めいたことをいうと、学生生活で東京にでた最初は、なにか怖くてうろつくとこのできなかったガード下が、しばらく暮らすうちに、まあ小汚い通りや店を、さも子供の頃から知っているかのように歩いたりできるようになったのだが、その過程は都会地になじみ、すれていく過程でもあって、若気の至りともいうべき数々の恥ずべき所業をしてしまうのも「「ガード下」の魔力でもあるのだろうか。
辺境の地で暮らし始めて長くなり、時折訪れるも仕事に追われ、「ガード下」から遠ざかって久しい。また、本書の「ガード下は誰をも受け入れてくれるはずだ(P228)」の言葉をたよりにあの妖しがなスポットを探索してみましょうかね。

青森県の「新時代ITビジネス研究会」に新しい行政と民間のコラボの姿を見た気がする

ASCIIで「クラウドコミュニティと一心同体だった青森県庁の杉山さんの3年」をはじめ、青森県のITビジネス研究会の記事をいくつか読んだのだが、この仕事のやり方の中に新しい行政と民間のコラボレーションの姿を見たような気がする。
仕事は公共の仕事ではあるが、こうしたIT系や産業振興系ではないため、失礼ながら青森県のこうした活動、ましてや青森県の担当をしていた杉山さんのことは全く存じ上げなかったのだが、全くの別部門から青森県のIT振興の仕事に異動し、斬新なやり方で青森のIT振興を有名にした人のようだ。
何本かのASCIIの記事で抽出すると、このIT振興の取組は
・県内の企業・組織のみに拘泥しない
・民間企業を圧倒するイベントの実施(回数)のスピード感
・個人が自主的に参加するコミュニティを支援する
・企画はコミュニティに任せ、行政は会場設営などの雑務・サポートに徹する
・役所はインフラ(場)づくりと広報(PR)に徹する
といった特徴があって、役所の許認可といった仕事には応用は無理かもしれないが、民間や企業とのコラボが必要となる業務には結構、応用・利用が可能な気がする。
とりわけ、民間と行政との関係は、多くの場合、「役割分担論」に陥ったり、「行政先導」か「民間への助成優先」といったことになりがちで、民間の動きを行政が周りからサポートして、自らに必要な施策効果を誘導する、といったやり方はまだ未成熟なのが実情ではないだろうか。
もちろん青森県の取組は「IT振興」という一種先端端的な分野であったがゆえの成功例ともいえるのであるが、例えば、地域おこしや地域開発とか、あるいは事業見直しの分野でも方法論として適用が可能ではないかと、その可能性を期待するのである。
とりわけ行政の場合、コラボする相手方の民間にもカチッとした組織を求めるのが常で、民間のほうはその組織づくりや運営に疲弊してしまう例が多いような気がする。
ネットによって個人は「個」のままでいる状態が常となっている、そうした「個」をつなぎあわせ、どうやって行政への参画を図っていくか、一つのネタになるかもしれない。

アメリカと日本の電子書籍の比較記事に思うこと

続けての電子書籍ネタであるのだが、c−netでアメリカと日本の電子書籍事情を比較した記事(日本は電子書籍系の「後進国」なのか?・・米国との差を「刊行点数」から推定)を一読したので感想を少し。
記事の要旨的には
・アメリカの電子書籍の普及率は2割から3割というが、それは一般書に限っての話。高等教育向け、児童向け、専門書をいれると1割
・日本の総合書籍市場も電子書籍のシェアも1割
・電子書籍の出版数を見ると世界のビッグ5の出版数は19万、日本のビッグ7の出版数は7万
で、どうやら日本の電子書籍事情はアメリカと比べて、さほど遜色のない状況のようで、「日本の出版界を遅れている」は間違い、といった論調。
なにやら日本の出版界の擁護っぽい記事であるのだが、電子書籍の先入観を揺さぶってくれる記事ではある。ただ、この点数の内容をみないとはっきりとした普及の是非は問えないところもあって、せめて一般書籍なのかコミックなのかぐらいの情報をみてアメリカと日本の電子書籍普及の優劣はつけるべきではある。
個人的な印象をいえば、日本の電子書籍はコミックが多いという情報もあるし、欧米に比べてコミックの出版自体も多い気がして、やはり電子出版の普及の度合いは一般書籍で図るべきであろうと思うのだが・・

Pogoplugの無料サービスにクラウド・ストレージの見直しを迫られている気がする

ネタフルさんのエントリー『「Pogoplue」2015年6月にも無料アカウントサービスを終了へ』にもあったのだがPogoplugが無料アカウントサービスを終了するということらしい。

先日、辺境の人にも、それらしいメールが届いたんだが、いまいち、よくわからないのはPogoplugのハードウエアを使った自宅のHDDをネットでアクセスしているサービスがどうなるか。アカウントは無料サービスのものなのでこれ道連れなのか、ハードウェアの機能だけは残してくれるのか私の英語力ではよくわからないところ。
クラウドサービスは自前の PCにファイルが保存されるという安心感からDropboxを使っていて、以前は優良プランといっても、値ごろなのは100G保存のサービスであったのだが、これが!Gに大幅拡張された衝撃はいわずもがな。
そのあおりを受けてPogoplugは無料サービスのまま放置していた、ということもある。
無料のクラウドサービスは、BoxやSugersyncやら無料サービスを停止したものが増えつつあるのだが、そんな中、ハードウェアを使ったクラウド化でPogoplugは一日の長があったはずなのだが、最近、同社への投資環境が変わって、どうやら無料サービスのは厳しい環境となった、と推測。
さてさて、どうするかですが、Pogoplugのアップロードやダウンロードスピードは残念ながら、遅いと言われている Dropboxよりも難があるのが事実。
ハードウェアのHDDクラウドサービスが有料でないと使えないとなると、年29$はさほど高価とは思わないのだが、更新はいささか躊躇してしまいそうなのである。
ー追記(2015.7.20)ー
期限が過ぎたのだが、どうやらウェブ版は無料プランがなくなったようなのだが、ハードウエア版は使えるようですね。

Kindleとkoboのストアシェアの意外な割合は電子書籍の普及の少なさの反映か?

Kindleが市場を席巻しているかと思っていたら、KindleとKoboの利用が拮抗しているという意外な情報がASCII「じつはKoboとKindleは拮抗していた!?電子書籍ストアシェア」に掲載されていた。
電子書籍を利用しているのはいわゆるアーリーアダプターたちが中心で、電子書籍の利用がまだまだ紙の本の優勢のままであるということも一因ではあるだろう。
数年前、最初にkoboが発売されて、Kindelがでるまでの電子書籍ということで飛びついた人も多いはず。その後、Kinleが発売されると、やっぱりKindleが世界の主流だよね、ということで、またまた端末を買い(たしかこの頃、楽天はプレミアム会員に無料でプレゼントといった自爆テロ的な販促行為をやったはず)両方持っている人が電子書籍愛好家には多いはず
で、個人的にはひとつに絞らなくてもいいのでは、という気がしている。
KindelもKoboも、正直ファイル管理機能が不満があって、書籍の整理がなかなか難しい。
しかも書籍の値段のことでいえば、両方が競うように同じサービスを始めることが多いので、どちらが得でといった差も少なくなっている。
ただ、家族と共用したりするのが前提のコミックと仕事関係や個人的な趣味関係の本とかが混ざるのもいやなので、例えばそうした書籍はKoboで買ってKindleでは買わないといった選別を緩やかにしている。専用端末は別々だが、KindleもKoboもスマホやタブレットのアプリを提供しているので、普通はどちらの電子書籍も読むアプリは違ってもスマホはひとつ(つまり端末はひとつ)ということなので、両者がバラバラな不都合も少ないというわけである。
心配なのは、そのサービスが終了すると、その本が読めなくなることなのだが、ここはKindleの方が経営優良で、Koboは比べるとってなことはあるかもしれないが、後の世のことは神のみぞ知る、ってなことで、辺境に住まう一介の庶民が心配してもしょうがない。
書籍の市場規模に占める割合が4.6%と、まだまだ紙の本に比べれば弱小勢力に間違いない日本の電子書籍である。どちらもガンバレ、と声援をおくるべきときであろう。

「お薬手帳はデジタルへ」を評価するのだが、なんか中途半端

GIZMOでSONYの電子お薬手帳の記事「お薬手帳もアナログからデジタルへ」を読む。

確か「電子お薬手帳」については以前、このブログでもエントリーしたことがあるのだが、改めて感想を述べるとすると、薬局あるいは家族内での服薬データというものについての共有化は評価するのだが、薬の処方元である「医院」との連携はどうしていくのか?ということがちょっとはっきりしないのが不満ではある。
個人的なことを言うと、年齢を重ねると、血圧やら目やら、複数の持病があって、それぞれに通う医者も違っている。
で、そこでもらう薬の処方なんだが、医院お抱えの薬局というのがあってその医院の近くに立地していることが多い。強い意志をもって、◯◯薬局で、ということがあればいいのだが通常はその薬局で処方してもらうのが便利なのでそうする。
今回のSONYの試みでは、確かのこうした時に「薬局」での確認は簡単にしてもらえるようになるし、過去の服薬データのチェックも「薬局」ではしてもらえる。ただ、「薬局」が「医院」の「付属薬局化」している時に、もともとの医者に服薬データをどうして届けるか、といったところまでフォローしないと「紙のお薬手帳」から「デジタルのお薬手帳」にはなかなかだよね、と思う次第。
Felicaの読み取り機があれば、複数の薬局でも閲覧できるようだから各医院に設置されれば良いのだろうが、この費用を誰がみるの?といったところもある。かといって、スマホを医者に預けるのも心理的な抵抗があるし・・・、ということで、このデジタルお薬手帳の成否は、医者とデジタルお薬手帳をどうつなげるかですね、といった気がするのであるが

バックパッカーは体制への反逆者か否か

「旅本」といえば、当然「旅の記録」であって、ここではないどこかの。いつかの時間の放浪の記録である。しかし、「旅本」を読んでも、人は「なぜ旅をするのか」の答えはでてこない。
本来なら定住し、職を得、家族を持つのがレギュラーな社会の中で、何故それからはぐれ、「旅」をしようとするのか、「旅の中」あるいは「移動」の中に安息を感じる人がいるのか、といったことをとらえようとするのが本書 大野哲也「旅を生きる人びと バックパッカーの人類学」(世界思想社)であろう。
構成は
第1章 「自分探し」のメカニズム
 一 ある「日本人バックパッカーの「自分探し」の経験
 二 「自分探し」の帰結
 三 旅の経験を資源として活用する
 四 再肯定されるアイデンテンティ
第2章 日本人宿コミュニティに生きる
 一 タメルで沈潜する旅人
 二 バックパッカーズタウンの誕生
 三 日本人が好む宿の特徴
 四 ある日本人宿の歴史
 五 定宿化という相互依存
 六 沈潜型バックパッカーの限界と可能性
第3章 商品化する冒険
 一 現代日本の海外旅行史
 二 バックパッカー誕生
 三 バックパッキングの商品化と「地球の歩き方」
 四 東南アジアの定番ルート
 五 バックパッキングにおける「放浪」の困難性
第4章 リスクを消費する
 一 日本人バックパッカー殺害事件
 二 バックパッカーのヒエラルキー
 三 エスカレートする冒険心
 四 刑務所に収監されたバックパッカー
 五 刑務所の日常
 六 バックパッカーから運び屋へ
 七 リスク消費の破綻
第5章 二つの社会を同時に生きる
 一 ある日本人バックパッカーの漂着
 二 結婚と移住
 三 ニッチを埋める
 四 二つの社会に生活基盤をつくる
 五 移住型バックパッカーの機知
第6章 旅を生き続ける人びと
 一 漂流するトロン
 二 ニュー・ムーン・ヴィレッジの住人ケン
 三 ヴィレッジの外線
 四 ふらの子育て
 五 旅の機知から生活の機知へ
終章  バックパッカーが切り開く地平
 一 旅で描かれる自画像
 二 生の技法としてのバックパッキング
となっていて、「人類学考察」と標題にあるように、本書の対象は「旅をする人」である。

「次世代ハイブリッド図書館」への率直な感想

東京大学で独自に電子書籍化した図書にいろんなハイパーリンクを埋め込んで

ひとつの電子書籍に対して多種多彩なリンクが埋め込まれ、電子書籍の学術的利用が進めやすくしており、文学作品の作者がどのように書籍を読み作品を作り上げていったのか追体験できる読書空間を構築。電子コンテンツ拡充と知識ネットワーク化に取り組み、学生の探究心を育む次世代ハイブリッド図書館の実現を目指すという。
といった紙と電子書籍を結んだ図書館のトライアルが始まるよう。
字だけではイメージがつかみづらいと思うので、詳しくはこちらのページを見てほしいのだが、電子書籍を読みながら時代背景とか著者のこととか様々なことがリンクで参照できるという仕組みらしい。
率直な感想をいうと、ちょっとウザい感じ。
研究書として調べ物をしながらよむ場合には、もっときちんと調べながら読みたいと思うし、純粋に「本」を読むときは余計な情報はあまり必要としない気がする。現に、Kindleの電子書籍の辞書機能なぞも、個人的にはほとんど使ったことがない。
機能満載ということでの仕様なのかもしれないが、一般利用者にはうーむな感じですな。