リベラル・アーツとは何なのか — 池上 彰「おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」(NHK出版新書)

「教養」あるいは「教養主義」というのは、特に日本においては毀誉褒貶の幅が広いもののように思えて、半藤一利氏や出口裕明氏は「世界史としての日本史」あたりでも「教養主義」の重要性を口を酸っぱくして言われるのだが、新自由主義や効率のみが基準となりがちなビジネスの現場では、旗色が悪いと言わざるをえないだろう。

で、本書の構成は

序章 私たちはどこから来て、どこへ行くのか

第一章 宗教ー唯一絶対神はどこから生まれたのか?

第二章 宇宙ーヒッグス粒子が解き明かす私たちの起源

第三章 人類の旅路ー私たちは突然変異から生まれた

第四章 人間と病気ー世界を震撼させたウイルスの正体

第五章 経済学ー歴史を変えた四つの理論とは

第六章 歴史ー過去は絶えず書き換えられる

第七章 日本と日本人ーいつ、どのようにして生まれたのか

となっていて、「ギリシャ・ローマ時代に源流を持ち、ヨーロッパの大学で学問の基本だとみなされた七科目のことを指します。具体的には①文法、②修辞学、③論理学、④算術、⑤幾何学、⑥天文学、⑦音楽の計七科です」とされる「リベラルアーツ」を、現代流に翻案して、タイムリーな話題を語るといった構成である。

で、リベラル・アーツを学ぶ効用といえば(こんな風に「効用」を言うってのは「リベラル・アーツ」の本旨とは離れるのかもしれないのだが)「歴史」学を例にとると

私自身は、イラン・イスラム革命は言ってみれば宗教ルネッサンスではないかと考えています。この革命の後、イスラム原理主義が中東で広がっていきます。こうした動向を見ると、あの革命は、力の衰えた宗教に改めて命を吹き込もうとする動きだったのではないでしょうか。

とか

こう見ると、これまでの過去の歴史は、ある意味ではとても単純でした。勝った者が記録を残し、負けた者の記録は残っていないからです。  過去のさまざまな歴史というのは、勝者が残した記録を後世の学者が分析をしてつくり上げたものです。一方で敗者の歴史というのは、この世界から抹殺されています。  ですから、私たちが学んだ歴史は言ってみれば氷山の一角で、実はそれ以外にも知られざる歴史がたくさんあるということを、常に頭の片隅にとどめておいてほしいのです。

といったことがあって、総じて言えば、「自分を相対化する」視点を得ることができるということであるようで、それはとりわ、最近のように「自国ナンバーワン主義」や自国意識が肥大化する時代にあって

国家意識というのは不思議なもので、自分たちの中だけでは生まれてきません。つまり、自分とは異質な人たちと接触をして初めて、彼らとわれわれは違うという認識が生まれてくるわけです。

健全な愛国心というのは、上から押しつけられるものではなくて、みんなが自然に持つものです。オリンピックのときみんな日本を応援するのも、別に誰かに押しつけられたわけではない。普段は日の丸を意識しなくても、オリンピックのような場では自然と日の丸を意識し、みんなで日本を応援するという意識が生まれてくる。

自然に湧き出てくる健全な愛国心というものはあると思います。ところが愛国心を政治的に利用しようとすると、やがて居心地の悪いものへ傾いていく

といった、醒めてはいるが、適切な「愛国心」というものに結びつくような気がしてならない。

ともあれ

現代に生きる私たちにとって、知識の重要さもそこにあります。単に受け取るだけではなく、それを現代に生かし、より良い社会をつくり、より良い人生を築いていく。それがリベラルアーツというものの価値なのです。

ということであるらしいので、目線と興味は幅広めに持って、目先の成功や小粒の利益にアクセクしない、という心構えを持たないといけないのかもしれませんね。

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