クリスマスも近い12月20日の19時過ぎ、都営地下鉄S線の各駅停車の車両の五両目で、突然、黒いリュックを抱えた迷彩柄のダウンジャケットの青年がナイフを取り出し、隣に座っていたマタニティドレス姿の女性に切りつけ、さらにナイフを振り回す青年を取り押さえうようとした70歳すぎの男性が腹を刺されて死亡する、という無差別殺傷事件が勃発します。
その後、かけつけた鉄道警察隊によって青年は逮捕され、事件は一応の決着を見るのですが、その車両に居合わせた人々の「その後の物語」が描かれる、異色の事件後ミステリが本書『降田天「事件は終わった」(集英社)』です。
あらすじと注目ポイント
構成は
00 事件
01 音
02 水の音
03 顔
04 英雄の鏡
05 扉
06 壁の男
となっていて、犯人と被害者となったマタニティドレスの女性、腹を刺されて死亡した老人、犯人のほか、事件の起きた車両に乗り合わせていた高校生、ホストの男性の物語が綴られます。
まず第一話目の「音」は、加害者の右隣に座っていた会社員「和宏」の物語です。彼は事件のおきた当時、屈強な体格と体力を活かして営業マンとしてそれなりの成績をおさめていた会社員だったのですが、事件の際、一番先に逃げ出したところが動画撮影されていたせいで、ネットで吊るし上げられ、それをきっかけに会社も辞めて引きこもりになっています。
毎日、同居している母親に当たり散らしながらゲーム三昧の日々を送っているのですが、ある時、アパートの何処かから、何かを殴る音と「たすけて」という小さな声を聞きます。
和宏は自分の部屋の隅の天井のパテで封じられた壁の隙間になにかありそうな気がして、そこをほじくり出すのですが、出てきたのは「ミライノオト」と書かれた紙切れ。
最初、ゴミかと思った和宏なのですが、それが「未来の音」という意味なのではと推測し、アパートのどこかの部屋で虐待か監禁がおきていないか調べ始めます。
そして、あるとき、2Fのちょうど真上の、和宏宅にクレームをつけてくる女の部屋から梶がでたとき、和宏はあることに気づき、その部屋に突入するのですが、そこで見たのは・・という展開です。
少しネタバレしておくと、事件に起因してネットによって抹殺されかかった男性の再生物語です。
第二話目の「水の音」は、事件で最初に切りつけられたマタニティ姿の女性・千穂の後日譚です。
自分をかばって死亡した老人の家に悔みにでかけた後、彼女は腐った水の匂いに悩まされるようになり、さらに幽霊の姿をみた、と言い始めます。さらに、二人の子供も■■■と遊んでいた、とか千穂の夫・孝太郎の目には見えない「子供」のことを話し始めます。
精神状態がどんどん悪化していく千穂の様子を見かねて、孝太郎は知り合いに紹介された霊能者に頼んで「除霊」を試みるのですが、千穂はそれを「祓ってほしくない」と拒絶します。そして、千穂にいやがらせをしかけている気配の女性を自宅前で捕まえ、彼女を問い詰めるのですが、実は意外な真実が隠されていて・・という筋立てです。
第三話目の「顔」は、その車両に乗り合わせて脱出した後、駅の階段で転倒して怪我をした高校生・池渕が主人公です。彼はその当時、スランプに悩んでいて、インターハイ出場も危ぶまれていたのですが、その怪我の治療をきっかけに長い治療期間を余儀なくされてしまいます。しかし、治癒後、奇跡のように復活し、彼の活躍で学校はインターハイ出場を決めます。その陰には、彼の怪我から再起までのドキュメンタリーを録画していた女性報道部員・野江と部のマネージャーをしている旧友との三人が共有している秘密があったおかげで、それは、池渕が怪我をしたときの状況からきた秘密なのですが・・という展開です。
事件のトラウマを乗り越えたスポーツ選手という美談が、その秘密が明らかになることで読者の前で崩壊していきます。
このほか。事件の起きた車両で逃げ出す乗客の誘導をして二次被害を防いだホストの男性が、意地の悪い馴染客にふりかかるトラブルを防ごうと、見当違いの奮闘をする「英雄の鏡」や、第三話で「池渕」の忘れていた秘密を明らかにした女性報道部員・野江が、実は事件の起きる前、被害にあった老人を痴漢と間違えて「死ね」と悪態をついていたことから、子供の頃からの夢であるジャーナリストになる希望が揺るぎだす「扉」や、事件の被害者となった70歳過ぎの男性の過去と、彼が暴漢を阻止しようとした意外な理由がでてくる「壁の男といった物語が綴られていきます。
レビュアーの一言
最初にネタバレしておくと、この物語の発端となる、地下鉄車両内での殺傷事件が起きた理由とか加害者の背景とかはまったく話題になりません。あくまでも、その車両に居合わせた人の後日譚や前日譚ということで、通常のミステリとは全く毛色が異なるミステリです。
ただ、事件が関係者の間にひきおこしていく謎の数々を解き明かすという意味で、一風変わったの「日常の謎」系ミステリといってよく、こういう仕立てのものを編み出した作者の手練に脱帽です。
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