ちょんまげ結うのも「血まみれ」の覚悟がいる ー 磯田道史「歴史の愉しみ方」

磯田道史

歴史コミックや時代小説を読んでいると、フィクションのところとノンフィクションのところが作者の手に乗せられてごっちゃになってくるところがあるので、時折は、正史のほうの書物を読んでおくことにしているのだが、がっちりとした本格的な歴史書は読んでいて眠くなってしまうのが玉に瑕のところがある。
その点、ちゃんとした歴史研究家・歴史学者でもある磯田道史先生の歴史エッセイは、身近な庶民の暮らしや、史実から抽出した現代への道しるべ的なところも教えてくれていて、読み物としても、歴史のTipsを拾うにしても最適なところがあるのだが、本書『磯田道史「歴史の愉しみ方ー忍者・合戦・幕末史に学ぶ」(中公新書)』もその例にもれない仕上がりになっている。

【構成と注目ポイント】

構成は

第1章 忍者の実像を探る

 忍者の履歴書/秘伝書に残された忍術/忍者の俸禄/赤穂浪士と忍者/甲賀百人組の居所/江戸の科学者たる忍者/毒物が語る闇の歴史 忍者の履歴書/秘伝書に残された忍術/忍者の俸禄/赤穂浪士と忍者/甲賀百人組の居所/江戸の科学者たる忍者/毒物が語る闇の歴史

第2章 歴史と出会う
 「武士の家計簿」のその後/ちょんまげの意味/北陸の妖怪目撃記録/幕末に飛び交った不気味な声/蓮月焼のぬくもり/頼山陽の真贋/皇族旧蔵品の発見/斎藤隆夫の命がけの色紙/子どもと歴史の感動/古文書が読めるまで/司馬さんに会えたらという半実仮想

第3章 先人に驚く
 天皇土葬化のきっかけ/江戸の狆飼育/殿様のお世話マニュアル/江戸の食品安全基準/江戸時代の倹約効果/日本人の習性は江戸時代に/手塚治虫と幕末西洋医/トカラ列島宝島の薩英戦争/龍馬暗殺時の政局メモ/陰陽師の埋めた胎盤/この国の経理の歴史/福沢諭吉と学者の気概/皇族・家族・不登校

第4章 震災の歴史に学ぶ
 和本が落ちてきて/小早川秀秋の墓/心の丈夫なる馬を用ゆべし/東北の慶長津波/
地震活動期に暮らす覚悟/江戸時代の「津波非難タワー」/フロイスの地震記事を追う/
津波ではじめた干拓バブル/地震の揺れ時間/津波と新幹線

第5章 戦国の声を聞く
 石川五右衛門の禁書を読む/五右衛門が獲ろうとしたもの/国宝犬山城の見方/小田原城主・大久保忠隣/家康と直江兼続/江戸城の弱点と攻略法/毛利が西軍についた瞬間/島津の強みは銃にあり/井伊直政はなぜ討たれたか/関ケ原見物作法①家康篇/関ケ原見物作法②三成篇

となっていて、章仕立てにはなってはいるが、章同士に関連性は少なく、それぞれの章ごとの「歴史エッセイ」として読めばいいと思います。内容的には「忍者」から「戦国時代」「薩摩人」などなど時代的にも多種多様なので、興味のあるところを拾い読みしてもよいかもしれません。

いくつか、面白そうなエピソードを拾うと、「ちょんまげ」というのは、戦国時代、兜をつけた時に蒸れないようにする目的で始まったらしいといったことを知っていても

戦国時代、ちょんまげを結うのは激痛をともなった。
(略)
室町時代は頭頂の毛をカミソリで剃らず木製の毛抜きで引き抜いた、「黒血流れて物すさまじ」と記録されている。まさに血と涙で日本人はちょんまげを結った。戦国時代の日本人がいかに異様な人々であったか、この一事でもって想像できよう。
(略)
戦国時代の武士は血みどろになって頭の毛を抜き、ちょんまげを結っていた。頭頂の毛を抜くのは兜をかぶったとき蒸れないためとされている。ちょんまげは戦闘の準備行為であり、間接的には主君への奉仕を象徴していた。ちょんまげを結わぬというのは武家慣習からの逸脱であり主君の無視であった。

といった風に、痛みとセットの「忠義の証明」と「戦闘意欲の証明」であったことを聞くと、よくある戦国マンガの長髪で総髪の主人公は、当時であれば一人前扱いされなかったのだろうな、と思ってみたり、

討幕は薩長土肥の共同作業のように語られるが、その実は違う。薩摩の、それも西郷や大久保などごく一部の薩摩人は恐るべき才覚でもって、まわりを巻きこみ、彼らが絵を描いて、革命にもっていったものである。
(略)
薩人は、これから起きうる事態を事前に想定し、対処のすべを用意することに長けていた。薩人の判断力の正体は高い反実仮想力であったといってよい。これを鍛えたのは。薩摩の郷中教育の「詮議」であった、薩摩では詮議と称し、子どもに色々と仮定の質問をなげかけて教育した。
(略)
おそらく、このような実践的な教育は、戦国時代の日本では、ひろく行われていた。文字に乏しかった戦国の日本は、粗野ながら、話し言葉で、人を教え、実際的な知恵をつけるすべをしっかりともっていた。しかし、江戸時代になると、武士の教育は四書五経の暗記のような形式主義に陥った。あらかじめ解答のきまったものに応える予定調和な教育が日本中に蔓延した。ところが、薩摩とおう最果ての地に、知識よりも知恵を重視した実践的な教育が残っていた。結局、日本は、この僻遠の地ではぐくまれていた政治的判断力でもって、新政府をつくり、迫りくる西洋列強に対処していったのである。

といったところでは、幕末ものの時代小説では、怜悧に物事を進めようとする「長州」に対し、情に厚く、直情径行の「薩摩っぽ」として描かれることの多いのだが、我々の認識をちょっと改めないといけないかな、と思わせ、さらに、関ケ原の戦で、敗戦の中、主君を守り抜いて落ち延びた薩摩軍の強さは

島津軍の強さの秘密は火力にあった。関ケ原にきていた島津軍は「ゑり勢三千人」といわれるようにえりすぐった精鋭部隊。近代軍のように全員ではないが他軍からみれば異様なほどの銃を装備していた。当時、鉄砲は主に足軽だけの携行武器。ところが島津軍は「みな腰さし鉄砲」を用意していたというから、絶大な火力を持っていた。(略)
銃装備。これこそが島津義弘が生還できた本当の理由であろう。当時の武士は鉄砲を卑怯な飛び道具と考え、足軽に持たせたが、薩摩ではこの考えが薄かった。身分のある武将も鉄砲を使う戦死の合理性があった。(P188)

といったところで、薩摩の武士たちの剽悍さと勇猛さだけではない、「兵力」の厚さと「先取性」に気づかされます。このあたり、宮下英樹さんの「センゴク権兵衛」で。仙石秀久が島津家久にコテンコテンにやられる場面も、実は背後に薩摩軍の兵器があってのことか、とあらためて彼らの武力に感心してしまうところです。

このほか、

西洋人はミッションの伝統があって異文明と接した時、あたりまえのように精密な報告書をつくる。その報告から、日本・中国・朝鮮・琉球・アイヌ、五つの民族誌を比較いてみたのである、すると面白いことがわかった、民族によって西洋人にはじめて出会ったとき、興味をもつ事物がどうも違う。西洋帆船に乗せてもらうと、朝鮮人は書物、琉球人は地球儀、アイヌは無欲で何も欲しがらず、日本人は滑稽なほど武器に興味をもっている。挑戦は儒教で文人の国。琉球は海人の国。アイヌは穏やかな猟人であった。そのなかで日本人の兵備への関心は突出していた、武人の国といってよかった。

という西洋人から見た「アジア」の民族観とか、興味深い豆知識が手に入りますので、歴史好きには堪らない歴史エッセイだと思います。

【レビュアーからひと言】

日本人の行動パターンについて、本書では、岐阜県の恵那地方にあった江戸時代の「岩村藩」という小藩をとりあげ、

この岩村藩は三万石の小藩だが、学問藩として名高かった、藩士の弟が幕府儒官のトップである林大学頭の養子になり、岩村藩家老の子の佐藤一斎が林家の塾長をつとめた。
(略)
岩村藩はマニュアル藩といってよいぐらい規則の好きな藩で、なんでもマニュアル化した。学校教科書に「慶安のお触書」が載っているが、これも岩村藩が農民の生活マニュアルとして印刷して領内に配ったことから全国に広がった。一般に日本人はマニュアル好きだが、岩村藩はそれを煮詰めたような藩だ。
(略)
マニュアルすなわち成文化された手順書は、日本の前近代に多くつくられている。荒梶決められた手順で規格的に動くこのありかたは江戸中期から一層はなはだしいものとなる。日本には「型」の文化があり、国民性としてのマニュアル好きはやはり古くからある。
(p79)

と評しています。どうやら、マニュアルに頼りがちなところは「江戸」の頃から変わっていないようで、日本のイノベーション教育の難しさをあらためて知るエピソードではありますね。

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