「数寄」と「政治」のすれ違いは昔から根深いもの — 山田芳裕「へうげもの 十服」(講談社文庫)

さて十巻は、加藤・福島らの石田三成を除こうとする反乱に始まる1599年閏3月3日に始まり、関ヶ原(1600年10月21日)の直近の1600年9月8日まで。
反乱騒ぎで、石田三成は五奉行を辞し、前田利家の亡くなり、いよいよ世の実権は「徳川へ」というご時勢での数寄大名の振る舞いは如何に、というところが
上杉、毛利が徳川に歯向かいたいという意思の背中を押したのが、小堀作助の手がけた真っ白の天守閣であるとなっているのだが、すいません、ここの暗喩は解けませんでした。
本書では「直江状は家康の改作」となっていて、古田織部は、この直江状に、石田・上杉方の数寄への冷たい態度をみて上杉への味方をやめるし、味方に入るよう口説く石田三成に大谷刑部が
その方の強がる姿も今は見えぬ。なれど眼に焼きついて離れぬ姿がある。
頭に茶碗をかぶりし真の姿が・・・
人間誰しも笑うて死にたいもの。
徳川様とその方、いずれに就かば面白がって死ねると思う・・?
と三成に加勢を決めたり、
佐竹義宣を徳川方に引き入れるために、家康から「銅」と「徳川の数寄の差配」を代償に提示され、古田織部が佐竹方の説得に赴くのだが、佐竹が徳川方に翻ったのも、織部の演奏と声明(歌)といった感じで、「数寄」「風流」「粋」といったことが要因で物事が決まるのである。
一方で、石田三成は兄・石田正澄に形の良い「瓢」を渡されるが「いかに努めようと、何をどうあがいても、私にはわからぬのだ。かような物に惹かれる心が」と無粋者であることを認めているし、徳川家康は家康で、利休所蔵であった「尻膨の茶入れ」を細川忠興に進呈した後で、「茶入れなぞ茶が湿気ねば何でもよい」と数寄へ興味がこれっぽっちもないことを白状している。
どうも、この時代の大大名の多くは利休居士の薫陶を受けた数寄大名が多いのだが、どうやら、関ヶ原の戦の勝敗がどうであろうと「数寄」「安土桃山文化」は風前の灯火であったのか、と現在でも様々なところでおこっている「文化」と「政治」のすれ違いを嘆息して見るんであるな。
細川ガラシャが石田方で攻めら敗死するのだが、史実と異なり、レオナルド・ダ・ヴィンチ考案のマシンガンを連射して石田方と華々しく戦った末の敗死という筋立て。明智の娘であるガラシャへの筆者ならではの高評価であろう。
このへんから曲者ぶりが如実にでてくるのが、茶々の方。徳川にも石田にもどっちつかずで豊臣秀頼の母としての地位の確立を目指し、織田政権の再興を狙う。たしか8巻あたりで、秀頼が秀吉の種でないことを茶々の方自ら白状しているのだが、その種の主は織田有楽斎ではないことだけは、その時のやりとりで明らかになっている。物語の今後の展開で明らかになるや否やというのも楽しみではある。

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