作成者別アーカイブ: takafam

アート(美術)は「美」の側面だけで語るものではない — 山本豊津「アートは資本主義の行方を予言する」(PHP新書)

「アート(美術)」というものは、古くは王侯貴族のものであったように、資本主義経済の隆盛と切っては切れないものとは思っていたのだが、国の覇権獲得活動にも重要であるなど、「アート(美術)」に対する新たな視点を開いてくれる。
 
構成は
 
第1章 資本主義の行方とアートー絵画に見る価値のカラクリ
第2章 戦後の日本とアートー東京画廊の誕生とフォンタナの衝撃
第3章 日本初のアートと東京画廊の歩みー脱欧米と「もの旅」
第4章 時代は西欧からアジアへー周縁がもたらす価値
第5章 グローバル化と「もの派」の再考ー世界と日本の関係
第6章 「武器」としての文化ー美の本当の力とは
 
となっているのだが、まず最初に度肝を抜くのが
 
価値の伸びシロが一番大きいゆえに、お金持ちが投資する究極の対象は絵画だと言われます。・・・お金持ちが絵画を資産として持つ理由は他にもあります。絵画ほどkさ張らず、軽く、持ち運びに便利な資産は他にはないのです。(P21)
 
といったあたりで、芸術と資本というものの微妙な関係を示してくれる。
 
さらに、当方が「ほぉ」と思ったのが、
 
キュレーターは美術を知っているだけではダメなのです。アートの歴史や価値を知っているだけでなく、経済や経営、社会学や心理学に至るまで幅広い知識と見識を持ち、なおかつ企画ができるというアイデアマンでなければいけません
 
といったところや
 
世界では経済におけるグローバルスタンダード化が進んでいます。
美術においても、アートフェァを通じて世界のギャラリーが集まり情報公開することで、美術の価格のグローバルスタンダード化が進んでいるわけです。
これは価格だけではありません。
アーティストや作品自体もグローバルに広がっていきます。
 
といった「美術」の意外な側面であり、
 
自分の国の美術品の価値を高め、それを世界に示すことで文化的な優位性や自信、そして美のスタンダードを握ろうというのは、欧米諸国や中国などの目指すところであり、悲願なのです。
(中略)
そうした国々はかつて世界の覇権を取った経験のある国であり、民族です。ヨーロッパ諸国ならイギリスやフランス、スペインやオランダ。イタリアはかつてのローマ帝国。それから第二次世界大戦後の米国に、以前のアジア全体の中心であり、今なお中華思想の根強い中国など。
そういった剛々とその民族は、覇権を握るということがどういうことかを知っているのです。軍事力で領土をおさえるだけでは不十分、経済力で上回るだけでも足りない。最後は文化の力が必要だということをー。
 
といった、実は「美術」を始めとする「文化」が、国の支配領域の拡大、ひいては覇権争いの主要な部分であると教えてくれるところであろう。
 
とはいうものの、正統な美術好きの方々には、日本の銀座の画廊の変遷などなど日本の美術史についてもきちんととりあげられているのでご安心を。
 
そして、この「アート(美術)」と我々の祖国・日本との関係であるが、本書によれば
 
文化歴史と文化の断絶を埋めるためにも、そして資本主義や国家主義の限界を乗り越えるためにも、近代以降の価値観を一度見直し、価値の転換を図ってはどうでしょうか?私が提案したいのは、回帰です。日本人は江戸時代にもう一度回帰するのです。日本人は江戸時代にもう一度回帰するのです
 
であったり
 
これからの日本、そして世界を考えたとき、アートの力が大きな意味を持つのではないかと考えています。激動の時代、閉塞した時代だからこそ、これまでの価値にとらわれない自由な視点が大切なのです。既成のものを乗り越えて新たな価値を生み出すパワーが必要なのです。
 
と日本の復活に「アート(美術)」の力の有用性を訴えるのだが、今まで金銭的価値や効用でしか、政策や施策のメルクマールを持たなかった歴史が塗り替えられるかどうかは、「・・・」でありましょうね。
 
さて、たまには、美術展に行きますかね・・・。

小味のきいた短編集をどうぞ — 近藤史恵「土蛍」(光文社時代小説文庫)

堅物同心・玉島千蔭を中心とする「猿若町捕物帳」も第5弾となった。
先んじる4冊(もっとも梅ケ枝の登場する第1作をその中にいれてはいけないかもしれないが)では、千蔭に周辺の、その巻をリードする形の女性が登場したのだが、この5作目は登場しない。まあ、シリーズを通して千蔭に絡む花魁・梅ケ枝がそうといえばいえなくもない。
 
収録は
 
「むじな菊」
「だんまり」
「土蛍」
「はずれくじ」
 
の4作
 
それぞれを簡単にレビューすると
 
まず、「むじな菊」は吉原の茶屋で火が出て、それで火傷を負った「梅ケ枝」が市中の旗本屋敷で朋輩と一緒に養生するところpから始まる。まあ、この旗本屋敷のことは、後の「土蛍」の伏線にもなっているのだが、それは置いといて、本筋は貧乏長屋に住む、妹・良江のところに博打好きの兄・作次郎が訪ねてきて金をせびっていく。そのうちに、この長屋の差配が殺される。この差配は兄を説教して諍いに成ったこともあるのだが、果たして犯人は・・、という話。「むじな菊」とは着物の柄で、八重菊の細かな花弁にも見えるが、一方で狢の毛並みにも見える柄のこと。見方によって、まったく異なる様相を見せる「人」の相と同じでありますな。
 
「だんまり」は辻斬りならぬ「辻の髷切り」の話。兄の借金の片に、吉原に売られそうになった、「お鈴」という巴之丞の一座の芝居作者・利吉の兄弟子の妹にまつわり話。博打と辻斬りの共通点がキーになるんだが、「ほう」と読むべきは、兄に依存していた妹が一連の騒ぎで逞しくなるあたりか。
 
「土蛍」は降って湧いたような梅ケ枝の身請け話を並行話としながらの、巴之丞と同じ芝居小屋で「新八」という役者が首を吊った事件の真相の話。新八は、師匠の杉蔵が孕ませた女性を女房にしているのだが、この杉蔵という役者、女を孕せては弟子に押し付けるという素行の悪さで有名なのだが・・、という話。で、梅ケ枝の身請け話の真相が、1作目の彼女たちが火事に焼け出されて世話になった旗本の家の奥方に関係するのだが、貞淑で従順な女性の怖さってのに底冷えしそうな感じがしますな。
 
「はずれくじ」は貧乏長屋でくすぶっている「直吉」という男が殺される事件。直吉は大工の息子に生まれるが、高所が苦手。それでも大工になろうとしてすぐに落下事故をして怪我をしてから、ケチのつき放題という男。彼は同じ長屋に住む「はる坊」に横恋慕している。そんな時、同じ長屋の後家に富くじをかてもらえないかと頼まれ、寺へ出かけたのだが、その途中に殺害されるとだが、犯人は・・という話。美しく育った「はる坊」というところに綺麗な女性好きの読者である当方は騙されてしまってのでありますな。
 
ということで、第5弾は、梅ケ枝と千蔭との仲が進展するわけでもなく、また二人の間に入る女性が登場するわけでもなく、ちょっと箸休めといった風なのであるが、箸休めで呑む酒が結構いけるように、風味が利いた話が多くて楽しめる一冊でありました。

またさらに堅物同心に誘惑がやってきた — 近藤久惠「寒椿ゆれる」(光文社文庫)

堅物同心・玉島千蔭と売れっ子の女形役者・水木巴之丞、売れっ子花魁・梅ケ枝の三者が繰り広げる捕物帳の第4弾。
 
収録は
 
「猪鍋」
「清姫」
「寒椿」
 
の三編。
 
このシリーズは、一冊ごとに千蔭に関係する「女性」が現れる筋立てになっていて、1作目は「梅ケ枝」、2作目は千蔭の親父の千次郎の内儀になってしまう、跳ねっ返りの「お駒」、三作目は、お駒の幼馴染の商家のお嬢様の「おふく」といった具合で
千蔭と良い仲になりそうで、離れていってしまうのであるのだが、今回は、どうも結納までいってしまいそうな、祐筆家のお嬢様の「おろく」という女性。
ただ、大身のお嬢様らしからぬ大柄で、やたら「数字」にこだわるという行き遅れでもある。
 
ざっくりとレビューすると
 
「猪鍋」は千蔭の若い母親となったお駒が妊娠し、つわりが酷いため、体が弱っている。そんな時に巴之丞に勧められた猪鍋屋にまつわる事件。この猪鍋屋、上方帰りの若主人によって大繁盛店になったんもだが、この若主人が上方で修行した見せの若旦那が敵で狙っているし、若主人は若主人で繁盛店の驕りか、女道楽が・・、といった事件の種満載の設定。さて、この店が急に繁盛店となった理由は?
 
 
「清姫」は、ご想像どおり「安珍清姫」が下敷きであるのだが、襲いかかられた巴之丞には見に覚えもなく、さらには犯人らしき娘にも覚えがないという筋。さらには、この犯人らしい娘が、「蛇」らしきあやしさではなく、「猫」に似てるとはあまり粋ではない。
 
三話目の「寒椿」は、今までの二話で千蔭と結納までいきそうになっている「おろく」嬢との仲が、案の定と言うか、大波乱、大破綻となる。もともと、祐筆の家の6女で、町奉行の同心の千蔭とは家格がまったく釣り合わないにもかかわらず、なぜにこうトントン拍子に縁談が進むのか、といったところの謎が解けると、千蔭のライバルの北町奉行所の大石の実直さが生きるというところであるか。ついでにいうと、「椿」はこの話でも首が落ちるということで忌み嫌われていることになっているのだが、他の説によれば、ポトンと落ちるところが「潔い」と実は評価されていたという話もあって、一筋から物事を捉えててはいけないということか。
 
さてさて、このシリーズも4作目となると、これからどう展開するか、とりわけ、千蔭と梅ケ枝との仲がどうなるか、が気になるところなのだが、ここまで、いろんな女性を登場させておい、最後にまさかのドンデンてなことがあるのかもしれんですね。

アメリカ流フロンティア精神で前へ前へと進んでいく方法論 — 「やり抜く人の9つの習慣ーコロンビア大学の成功の科学」(Discover)

アメリカの成功に向けたステップを解説するビジネス本は、日本のそれに比べて妙な説教臭さや求道精神がないのが好みである。
本書もそうしたアメリカ流ビジネス本のスタンダードのようなつくりで、一種の明るさをもって、これから仕事や人生にどう向うかってなことを考えさせてくれる。
 
構成は
 
第1章 目標に具体性を与える
第2章 目標達成への行動計画をつくる
第3章 目標までの距離を意識する
第4章 現実的楽観主義者になる
第5章 「成長すること」に集中する
第6章 「やり抜く力」を持つ
第7章 筋肉を鍛えるように意志力を鍛える
第8章 自分を追い込まない
第9章 「やめるべきこと」より「やるべきこと」に集中する
 
となっていて、目次を見てわかるように、人生ないしは仕事でどういう目標を設定し、それをどう達成するか、といったアメリカらしいプラグマティックなつくりである。
 
それは
 
目標について、私がいつも最初に教えることーそれは「具体的にしなさい」ということです。例えば、「やせたい」と思うのならば、目標は「やせる」ではなく「5キロやせる」とすべきです。
 
とか
 
「これから思考」を重視して、目標までの距離を測ると、モチベーヨンは維持されます。さらには、「これからやるべきこと」を意識することでモチベーションを高めることもできます。
 
「望むことは簡単にできる」「ほしいものは簡単に手に入る」と感上げると失敗の確立が高まるという研究があります。
 
といったところにも見て取れる。
 
目標を設定するときは「今、何ができるのか」ではなく「これから、何ができるようになりたいか」を考えるようにしてください。
 
 
「証明ゴール」の問題点は、まったく未知の課題や難しい課題に取り組むときに、逆効果になる可能性があることです。
 
「成長すること」にフォーカスすると「仕事の意味」が変わってきます。
 
といったところは、とかく求道的になって、新しい課題がでてくると縮んでしまう”日本”のやり方とは対象的におおしろい。
 
そして、こうした楽天的なビジネス本で嬉しいのは、打ちひしがれているときや、失敗して失意の中にいるときに、なんとか前へ立ち上がっていく力を注入してくれる所で
 
行動を変えたいのなら「やめたいこと」を考えるのではなく、「やりたいこと」「やるべきこと」を考えるのです。
 
成功とは「正しい選択」「正しい戦略」「正しい行動」によってつかむものです。決して生まれつきのDNAで決まるものではありません。
 
といったところは、とかく失敗を考えて縮みこんでしまいがちな我々の行動と精神を鼓舞してくれる一冊ですね。

手帳やノートは文字だけで構成するものではない — 「手帳で楽しむスケッチイラスト」(エムディエヌコーポレーション)

手帳術、ノート術ってものは、ちょっと深みにはいりかけたあたらりが一番面白いような気がしていて、はまりこむところは、人によってはスタンプであったり、シールであったりとい千差万別ではあるのだが、憧れつつもなかなか敷居の高いのが、「イラスト」というやつ。
 
本書は、そうした「イラスト)をノートや手帳にばりばり使っている人たちの実際の写真などを紹介しながら、レポートしてくれる。
 
構成は
 
第1章 達人の手帳を大公開
第2章 すぐに描ける・使えるイラストの描き方
第3章 スケッチ手帳を使いこなすためのヒント集102
第4章 相棒探しのために知っておきたい基本の「き」
 
となっているのだが、ボリューム的には第1章が一番多く、第2章以降は、まあ、技術論を少々プラスしました、といった感じで読んだほうがよさそうだ。
であるのだが、こうした手帳術とおいうものは、くだくだと理論編は続く、というのが一番退屈なもので、こうした実際の「達人」たちのノート、手帳がビジュアルに見えるものが最も楽しい「手帳本」になりうると確信している。
 
紹介されるのはイラストレーター、造形家といったところがメインなので、コクヨのノートシリーズや日経アソシエの手帳特集といったところとは一線を画すのであるが、やはりイラストのプロたちの手帳は、実際に真似できるかどうかは別として楽しいのは事実。
 
どこまで自分の手帳やノート術に取り込めるかは別として、「絵心」あふれる技の数々は見ていて楽しいですな。

「世間」から如何に逃れるか。といってもグローバリズムは鬼畜の仕業と心得るべし — 鴻上尚史「「空気」と「世間」」(講談社現代新書)

政策選択ではなく、どの「空気」を選択するのか?といった選挙が始まったところなのであるが、もともと日本の閉塞感を生み出したと思う人達に、あれこれ言われてもな、と思う反面、それを選択したのは我々だよな、と思うと、気が滅入ってくる昨今なのであるが、そうした「日本の閉塞感」とそれがもたらした新しい時代風景についての論述が本書。
 
構成は
 
はじめに
第一章 「空気を読め!」はなぜ無敵か
第二章 世間とは何か
第三章 「世間」と「空気」
第四章 「空気」に対抗する方法
第五章 「世間」が壊れ「空気」が流行る時代
第六章 あなたを支えるもの
第七章 「社会」と出会う方法
おわりに
 
となっていて、帯に「「空気」を読まずに、息苦しい日本を生き抜く方法」とあるのだが、そう単純化して語るものではないだろうと思う次第。
というのも、「空気読め」といった言葉が市民権を得たのは、いわゆるグローバル化信仰で、日本の雇用形態とかなにやらが、ぐずぐずに崩れたあたりと時期を同じくするようで、それは、ワーキングプアとか官製ワーキングプアとか、「働く」という美徳が崩れ去ったときと符合しているような気がしている。そして、その「空気」の正体は、筆者によると
 
僕は「空気」とは「世間」が流動化したものと考えていると書きました。
「世間」とは、あの「世間体が悪い」とか「世間を騒がせた」とかの「世間」です。
その「世間」がカジュアル化し、簡単に出現するようになったのが、「空気」だと思っているのです。
けれど「世間」と「空気」を共に内側から支え、構成しているルールは同じだと考えています。(P32)
 
ということであるので、実は「日本的価値観」と同一視していいものであろう。
 
で、当然、この「旧来の日本的価値観」へのアンチテーゼとして論陣が張られるのであるが、残念ながら、その旧来の価値観がすでに崩壊寸前であることが少し異質ではある。ただ、いわゆる新自由主義者や渡航帰りのMBA取得者や声高の教条主義者のいうこととちょっと違って
 
あらかじめ言っておきますが、こうやって相対化できるからアメリカ人の方が成熟している、なんていう言い方を信じてはいけません、
彼らは、神のこと以外は、すべて相対化の視点で語ることができるのです。
 けれど、神のことに関しては、まったく相対化できません。(P126)
 
であったり、
 
相手を批判するうちに、批判する言葉が絶対的なものになってしまって、批判していた本人自信がにっちもさっちも動けなくなる、という状況が日本では普通の光景だということです。
(中略)
そして、結果は、相手に対する100%の勝利か0%の負けかという、相手を殺すか自分が死ぬか、という絶対的な選択しかないと思いこんでしまうのです。(P132)
 
 
「空気」の支配は、議論を拒否するのです。それが自分にとって都合がいいと思っていても、必ず、都合の悪い「空気」が支配的になる時がきます。どんなに怒っていても、議論を放棄して「空気」の支配に身を任せてはまずいのです。いつかきっと、強烈なしっぺ返しが来るのですから(P134)
 
といったところに妙に信頼感を感じてしまうのは当方だけであろうか。
 
まあ、本書での「空気」の支配から逃れるには
 
日本人が「共同体」と「共同体の匂い」に怯えず、ほんの少し強い「個人」になることは、実は楽に生きる手助けになるだろうと僕は思っています(P213)
 
つまり、前向きに「世間」と「社会」を往復するのです。
それは「複数の『共同体』にゆるやかに所属する」ということです(P243)
 
不安ゆえに、ひとつの共同体にしがみつけば、それは「世間」となります。・・・不安だからこそ、複数の共同体に所属して、自分の不安を軽くするのです。(P247)
 
といった、身軽な所作が大事であるようだ。精神的に自らを拘束したり、どこかに縛ってしまうようなことはできるだけ切り離していくことが大事でありますかな。

巨木が倒れる時、周辺の草花は — 伊東 潤「戦国鬼譚 惨」(講談社文庫)

戦国ものの小説やドラマ、はては歴史講座などは、どうしても景気のよい勝者の立場からのものが多いのだが、その際、敗者となった者は、ことさらに無能力や傲慢を指弾されたりするもの。特に、織田、豊臣。徳川といった戦国の代ヒーローたちに攻め滅ぼされたものは、そうした憂き目にあうことが多い。

本書は、そういうものの典型で、長篠の戦の後、織田軍の攻め込まれ、滅亡へと進む「武田」家の物語。しかも、滅亡の主役である武田勝頼を始めとする「武田家本家」ではなく、その周辺の物語である。

収録は

木曾谷の証人

要らぬ駒

画竜点睛

温もりいまだ冷めやらず

表裏者

となっていて、概括すると、織田勢から攻め込まれる木曾谷に始まり、武田家滅亡後、本能寺の変を経て、穴山梅雪が土民(本書では、土民ではないのですがね)に討ち取られるまで。

 

もっとも、本書の著者の伊東 潤氏は、「敗れた者」を描いたら手練の小説家。織田ー武田家の争いの中で、翻弄され、sるものは人質のカ家族を思いつつも織田に転じたり、信玄死後、勝家によって疎んじられた鬱憤から主家を裏切ったり、とか、滅びる時はかくあるかな、と思わせるような、武門の家が「崩れていく姿」を描いてくれるのである。

 

で、本書がおすすめなのは、失意の最中ではないがまだ傷をおっている時で、天下をとるために駆け上がっていく物語ではないので、精神を鼓舞されることはないのだは、心の傷口がまだひりひりしているときに、家の滅亡を取り巻く様々な生き方を見て、なんとなく慰められるところであろう。

「勝ち抜いていく」ことばかりが、おすすめの生き方ではないようであるような気がしてくる短編集でありますな。

 

「買い物依存症」の女性に仕掛けられた罠とは? — 近藤史恵「カナリアは眠れない」(祥伝社)

近藤史恵氏については、時代物を最近レビューしてきていたのだが、久々にミステリーについてレビュー。
 
今回は書き下ろし作品で初版は平成11年であるので、時代風景、あるいは主人公たちの持つデバイスは少々古いのは間違いないのだが、この作品で描かれる「依存症」は現代に至っても消して解決しているとは思えず、むしろ当たり前の病理として深く我々の精神性の中に浸透してしまっている気がする。
 
筋立ては、筆者の得意な複数の流れがそれぞれに進行し、それが合流する所で、一曲に大団円、事件の解決、といったもの。
 
そして、その流れの一つは、大阪の三流雑誌の記者が、場末の整骨院で乱暴で風変わりの院長と、そのアシスタントの美人姉妹に出会う。彼女たちも、なにかしら精神的なトラウマを抱えているのだが・・・。というものと、かつてカード破産をした女性が見合い結婚を経た、今は若手実業家の奥さんにおさまっている。しかし、その買い物癖は治まらず、それどころか彼女の高級ブテックを経営する同級生にであったことで加速化し・・・、という二つの流れがどんとぶつかる。
 
今回の解くべき謎は、もちろん、雑誌記者の方ではなく、買い物中毒の女性に仕掛けられた罠であるのだが、その仕掛け人は・・というところは本書で。
 
こうした「依存症」を扱うものは、ミステリーであっても重くなりがちで、患者たちが陥った原因であるとか環境であるとかが深掘りされがちであるのだが、本書は、そういう事象は事象として扱っていて、いつの間にか、物語の主役の一人で、罠を仕掛けられる被害者であるんだが、買い物依存症の「内山茜」に、同調して彼女がなんとか助からないか、と思わせてしまうのは、筆者の筆の冴えであろうか。
 
まあ、本書は難しいことは考えず、買い物依存症の過去の女性に仕掛けられたサスペンス。ミステリーととらえて気楽に楽しむべきでありますね。

「自分商店」化ってどういうこと? — 谷本真由美「日本人の働き方の9割がヤバい件について」(PHP)

2015年8月の著作であるので、今、政府が言い出して、選挙でチャラになりそうな「働き方改革」より前の出版。最近の「働き方」に関する議論は、ネットワーキング、在宅勤務といった「働き方のツール」に関するものが大半で、「働き方の理念」「働き方のスタイル」を扱うものが少ないように思うのだが、さすが辛口の論客の谷本真由美氏は真っ向からこのあたりに論陣をはるのが流石というところ。
 
構成は
 
第1章 働き方に悩みまくる日本のサラリーマン
第2章 あなたが悩むのはニッポンの「働き仕組み」がおかしいから
第3章 働き方の激変はグローバルな潮流
第4章 生き残りたければ「自分商店」を目指せ
第5章 来るべき時代に備えよ
 
となっているのだが、イギリス在住というアドバンスを活かして
 
イギリスでも1980年代に20代〜30代だった人々というのはバブル世代です。(P134 )
 
当時のサラリーマンはローリスク、ローリターンで、現在のように、ホワイトカラーの仕事までもが海外に外注されるとは夢にも思っていませんでした。また、サッチャー改革があったとはいえ、今よりも、製造業の仕事が多く、ロースキルの若い人でも安定した雇用にありつけた時代でした(P134)
 
と今の日本人の働き方だけが特殊だったのではなく、かなりの国に共通の働き方であったことを看破しながら、
 
親がバブル世代の子供たちは、誰もが「自分商店」、つまり、組織に頼らずに、知識やスキルを売りに、不安定な一雇用の中で生きていかなければならない世界で大人になりました。
彼らの競争相手は他国の人々であり、圏内の人々とだけ競争していればよかった時代は過ぎてしまったのです。
 
と日本の労働者の未来を予言するのであるが、その働き方の姿は
 
OECDの報告書によれば、多くの先進国で、労働規制の改革により、レイオフが簡単になったり、非正規雇用の社員を雇いやすくなったりしています。一方で、働く人の流動性が高まったので、能力がある人は以前より高収入を得るようになっています。
つまり、組織に依存するのではなく、スキルを売りにする個人が、自分の都合に合わせて、様々な組織を渡り歩いて働く、という形態が増えているのです。(P188)
 
というスタイルであるらしい。
 
もっとも、このスタイル、氏が指摘するように
 
一方で、日本やインドのようなハイコンテクストカルチャーは、その反対です。
この文化圏では、社会の基本単位は集団です。
ハイコンテクストとは、同じ集団の中であれば、はっきりとものを言わなくても意味が通じることを指します。
つまり、それだけ、集団の中における個人の距離が近いのです。
このような文化閣では、個人は、その人の考え方よりも、どこに所属するかで判断されます
 
といった社会で、スムーズに浸透するかどうかは、今の「働き方」議論が「働くツール」や「働く場所(しかも会社か家か)」の議論が中心となっている現状をみると「黒船」的にどっと変化の波に襲われるという状況が一番ありうるかもしれない。
 
まあ、筆者によれば
 
働く人の自分商店化は、50年前の状態に回帰しただけであり、そもそも、終身届用や働く人の多くが、正社員として、新卒で一括採用される仕組みの方が異常であった、ということがいえるでしょう。
たかだか50年程度しか歴史のない仕組みが、「日本固有の雇用体系」といえるかどうかは疑わしいですし、戦後の高度成長期の産業構造に合わせて、最適化された雇用体系にすぎなかったというわけです
 
であるらしいから、ここらで無理やりにでも自分なりに意識を変えて、来そうな未来に備えたほうがよろしいかもしれんですね。

”PR”の真髄とは? — 殿村美樹「ブームをつくる ー 人がみずから動く仕組み」(集英社新書)

当方のような公的セクターの勤め人は、以前は謹厳実直が基本であったのだが、最近は観光の売り込みなどなど、不慣れなことをやる部分は当然増えているわけで、その時に、こうした”PR”についての手引書は結構ありがたいもの。
 
ただ、構成の
 
第1章 人が自ら動くーPRにおける「ムーブメント思考」とは何か
第2章 個人の単位から社会的な動きへ
第3章 クライアントを納得させるプレゼン術
第4章 メディアを動かす
第5章 狙いどおりに永続的に動かす
 
を見てもわかるように、いわゆる広告やPRのノウハウ本というわけではなくて、PRに関する”思想本”という位置づけてとらえるべきであろう。
 
そのあたりは「PR業務」は
 
商品の存在を人に伝え、価値を理解してもらいだけでなく、商品を知った人に何らかの行動を起こしてもらう。それも出来る限り長くその行動を続けてもらう
 
PR活動を通じて「ひとつの文化」をつくりあげていく(P9)
 
といった出だしのところや
 
PRの専門家がもっていなければならないのは、奇抜なアイデアを生む独創性ではなく、「みんなが何を求めているか」を正確に把握するための庶民感覚(P104)
 
といったところでも明らかであろう。
もっとも、PRに関する本として、
 
現在の日本社会が1億人のスケールだとすれば200万人に伝えることができれば、そこから先は拡散されることで生命をもったかのように情報そのものがPRを新たな次元へ導いてくれる(P52)
 
の「限界点」は2%の原則とか
 
遷宮のように特別な価値をもった行事であっても、それだけで集客力を持つわけではなく、メディアを通じた”露出”(P177)
 
が重要といったところは素人がPR業務を行う上での貴重な道標になる。
というのも、公的セクターのPRは観光的なことであっても、一発的に集客して、あとは野となれ、は一番慎むべきことと思われて、
 
「永続性を生むPR」では予算的にも短期集中ではなく、継続できる範囲の予算を確保し続けることで成果を出していけるようにプランニングの段階から考えていくことが必要
 
といった気構えがなによりも大切なんであろう。
なんにせよ、このご時勢、ほとんどの仕事が”PR”とは切っても切れない仲となっている。苦手意識をもったり、敷居高く考えずに
 
かつては大都市からマスメディアを通じて発信されたトレンドに地方が追随するというケースが多く見られました。
しかし、インターネットが普及した現在はそうではありません。
インターネットの世界には、中央も、地方も、上も下もないのです。いま、文化を発信する力を持っているのは、大都市ではなく地方だといったいいでしょう
 
という気概で、意気高くいきますか。