山暮らしの荒々しい魅力 ー 小泉武夫「猟師の肉は腐らない」(新潮社)

6月から7月にかけて、狩猟について集中的に読んできたのだが、いわゆる「有害鳥獣駆除」の課題とかネックといったことも見聞きし、いわゆる「猟師本」にも、そろそろ飽いてきた気配もある。
そんなこんなで、純粋な「猟師本」とはいえないが、その周縁部にある。小泉武夫「猟師の肉は腐らない」をとりあげよう。
筆者の小泉先生は、醸造やら発酵やら、まあ臭い食べ物には造詣がやたら深い大先生なのだが、そうしたことと野生生活、山暮らしというのは親和性が高いらしく、福島県は阿武隈山中の八溝山が舞台。
ここに、渋谷の飲み屋で知り合って、以降、京都、ギリシャの田舎町などで運命的な出会いをしている「義っしゃん」という猟師というか山男を、夏、冬と訪ねて、数泊の山暮らしをするというのが本書。
構成は
第一部 長閑なること、宇宙のごとし
第二部 八溝の冬

となっているのだが、なに、筋立てというほどの筋立てはなく、小泉先生が土産をもって、山男の許を訪ねてきて、山の中で岩魚・ヤマメ漁をしたり、山菜採りをしたり、イノシシ・ウサギ猟をしたり、といったまあガサガサ、ワイワイとした山の話である。
というのも、もともと八溝山の義っしゃんを訪ねる理由も
八溝の山の中で一人悠々と暮らしているであろう義っしゃんに無性に会いたくなった。義っしゃんは一体、どんな生活をしているのかを知り役もあったのだが、あまりにも煩わしい日々を続けていたので、一時的にその現状から逃走したかった
(P10)
といったなんとも希薄な理由であるし、もっていく土産も、夏は「リュックサックの中には、義っしゃんの大好物である昔懐かしい「粕取焼酎」二升とトビウオのくさやが三枚」、冬は「土産は勿論粕取焼酎二本と魚の缶詰十個、くさや五枚、カレーのルー十個、塩引き鮭一本」といった具合だから、おシャレな山行きとはなるわけもない。
で、そんな山暮らしであるから、コジャレた料理は出てこないが、野性味溢れる「ウマイ」ものは当然満載なわけで
猪の燻製は
義っしゃんは、猪肉の燻製の薄切りをすすめてくれた。俺は一枚手づかみして口に放り込み、ムシャムシャと噛みはじめた。瞬時に燻された猪肉の燻香が鼻孔から抜けてきて、口の中ではシコシコした歯応えが快く、そこからとても濃いうま汁がジュルジュルと湧き出てきた。さらに脂肪身から出てきたコクがうま味をぐっとお仕上げてくるものだから、舌の上では収拾がつかないほどの美味の混乱が起こり始めた。(P26)
といった具合であるし、岩魚の「水音焼き」は
俺は先ず、岩魚に箸を付けて身を毟り取ると、その純白の身から仄かに湯気が立て昇った。そして口に入れて噛んだ途端、鼻孔からは蒸された蕗の葉の、干し草のような掠れた匂いが抜けてきて、それに打ち消されたのか魚の生臭みは全くない。噛むほどに口の中には、岩魚の品の良いうま味と微かな甘味とがピュルル、チュルルと湧きだしてきて、それを、皮と身との間に付いていた少しの脂肪のペナペナとしたコクが押し上げ、あじわいは絶妙であった。食べながらに、義っしゃんが教えてくれた「水音焼き」の謂れをふと思い出し、俺は耳を住ましてみた。耳からはさまざまな水の音が入ってくる。(P53)
といった具合であるが、魅力的なのは間違いない。
さらには
串の先端の蝉を齧ってぐいっと引くと、スーッと蝉は串から離れて口の中に入ってきた。サクリ、サクリというやや乾いた食感がして、次第に唾液と混じってネトネト、ネチャネチャという湿った舌あたりに代わり、潰れた蝉から不思議な味と醤油の塩っぱい味が滲み出してきた。・・・淡いうま味と微かな苦味と渋味もあって、かなりアクの強い味であった。(P77)
という「昆虫食」すら登場して、かなりの変わり種というかゲテモノに近い食物の満艦飾ではあるのだが、そのいずれもが「美味そう」なのは、山の魔力というものであろうか。
極めつけは「紙餅」と称するもので
木の皮や枝。楮や桑、楢、檜葉を水に漬けてから臼に入れ、杵でつく。これを丸めて一晩煮る。
水に晒した後、まるめて水を絞り出す。次にそれをぐしゃぐしゃにほぐして味噌を加えてよく混ぜ合わせる。
葛粉を巻いて、捏ねて、ゴルフボールほどに丸めた団子にする。最後に再度葛粉をふってサラサラにして出来上がり。味噌汁の実にして食する。
といったものらしいのだが、いやはや、木の皮まで「喰ってしまう」とは恐れいったもの。
なんにせよ、肩肘張らない「山暮らし」「猟暮らし」の本である。難しいことは考えず、義っしゃんの猟の腕や、愛犬のクマの健気さに思いをはせつつ、野趣あふれた暮らしに憧れをみてはいかがであろうか。

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