「諦めること」に積極的な意味を見出す”生き方”もある ー 為末大「諦める力 勝てないのは努力が足りないからじゃない」

先日は、同じ為末さんの「限界の正体」で、限界をどうしたら突破できるか、限界を感じるのは全力を尽くしてから、といった書評を書いたのだが、同じ筆者のものながら、今回は「諦める」ということについてである。

先に取り上げたものとちょっと背反するんじゃないの、という声も聞こえてきそうなのだが、筆者は「限界の正体」でも「努力してもどうにもならないことがある」ことは認めていて、全力で壁を超えようとチャレンジした後に「諦めてしまうこと」は善くないことなのか?、もうお終いということなのか?、について言及し、「諦めること」の肯定的な意味を教えてくれるのが本書『為末大「諦める力 勝てないのは努力が足りないからじゃない」(プレジデント社)』である。

 

【構成と注目ポイント】

構成は

第1章 諦めたくないから諦めた
第2章 やめることについて考えてみよう
第3章 現役を引退した僕が見たオリンピック
第4章 他人が決めたランキングに惑わされない
第5章 人は万能ではなく、世の中は平等ではない
第6章 自分にとっての幸福とは何か

となっていて、最初にいうと、筆者自体が100メートルからハードルに転向し、オリンピックの銅メダルの獲得後ほどなく競技生活から引退し、という「諦めた」人である。

通常、何かを諦めた人は、他の分野に移ってもわだかまりをかかえていることが多いのだが、筆者の場合、「諦めた」後が輝いていて、それは

そもそも、自分は何をしたいのか。
自分の思いの原点にあるものを深く掘り下げていくと、目的に向かう道が無数に見えてくる。
道は一つではないが、一つしか選べない。
だから、Aという道を行きたければ、Bという道は諦めるしかない。
最終的に目的に到達することと、何かを諦めることはトレードオフなのだ。
何一つ諦めないということは立ち止まっていることに等しい。(P43)

という一つの諦観が生み出しているのであろう。そして、このことは「諦める」ということにネガティブな印象を持っている日本人社会を

日本人は「せっかくここまでやったんだから」という考え方に縛られる傾向が強い。
過去の蓄積を大事にするというと聞こえはいいが、実態は過去を引きずっているにすぎないと思う。
経済活動も含めて、日本人はサンクコストを切り捨てることが苦手だし、サンクコストを振り切って前に進むのがいけないことのように考えがちだ。(P56)

と分析した上で、

願望を希望と錯覚してズルズル続けている人は、やめ時を見失いがちだ。
なぜなら、願望は確率をねじ曲げるからである(P57)

と、諦めないことの「危うさ」を指摘し、

やめること、諦めることを「逃げること」と同義に扱う傾向は、日本の社会においてとくに強いものだと感じる。
僕は「やめる」「諦める」という言葉を、まったく違う言葉で言い換えられないかと思っている。たとえば「選び直す」「修正する」といった前向きな言葉だ。(P70)

として、「諦めること」の積極的な意味を見出しているところは、「諦めること」「やめること」がすなわち、「永遠の敗北」を意味しがちな我々の意識を揺さぶるとともに、いい意味での「免罪符」を与えてくれるものである。

そして、それは

「やめてもいいんだよ」「やっても得にはならないよ」と言われても、意に介さずにやる人に共通しているのは、他人に評価してもらわなくても幸福感が得られているということだろう(P213)


「やめてもいい」という発想は「自分がいいと思うところまででいい」ということでもある。
幸せや成功の度合いにランキングなどないのだ。(P214)

と、自分の価値観を持つことは、「諦めること」へ積極的な意味付けをしてくれる、「諦めること」によって違うところでイキイキと活躍できる基礎でもあるようだ。

【レビュアーから一言】

「諦める」「やめる」ということは、我々にとって、とてもどんよりとした感情をもたらすもの。どうかすると、続けてもうまくいかないんじゃないか、と薄々気づいていても惰性で続けたり、「やめること」になにか意味を見出そうとしてしまうことがある。そんな時は

意味を見出そうと一生懸命考えていくと最後には意味なんでなんにもないんじゃないかと思うようになった。人生は舞台の上で、僕は幻を見ている。人生は暇つぶしだと思ってから、急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった(P72)
たかが人生、踊らにやそんそん、である。(P74)

といったふうに、積極的に「諦める」ことが、人生の新たな跳躍のためには必要なときもあるように思いますね。

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