豊臣秀吉の没後、日本中の武士勢力が豊臣方と徳川方の二派にわかれて争い、天下分け目の決戦となったのが「関ヶ原の戦い」。東軍の総大将となった徳川家康については、その権力奪取の動きや権謀術数の数々が様々な場面で語られ、彼の「狸親父」としてのイメージを作り上げたのですが、一方の西軍の総大将となった「毛利輝元」については、石田三成や宇喜多秀家、大谷刑部といった武将のイメージが強すぎて、ほとんどイメージらしいイメージがもてない方が多数かと思います。
そんな一般的には影の薄い「毛利輝元」にスポットをあてて、豊臣政権末期の様子を描き出したのが本書『伊東潤「天下大乱」(朝日新聞出版)』です。
あらすじと注目ポイント
構成は
第一章 権謀術数
第二章 虚々実々
第三章 乾坤一擲
第四章 乱離骨灰
となっていて、物語は豊臣秀吉の亡くなる慶長三年八月十八日の9日前の八月九日、秀吉の夜間の召出しに、徳川家康が急遽、大阪城へ登城するところから始まります。
すでに死期を悟っていた秀吉は、自分の死後、跡を継ぐ秀頼の統治を安泰にするため、様々な策を講じていたのですが、この夜、秀吉は家康に淀君を娶らせ、秀頼が20歳になるまで天下を采配してくれとまで言いだします。家康の天下取りの野心を疑っての発言なのですが、本書ではこの当時家康は天下を狙っておらず、あくまでも政権内の最有力の大名としての地位の保持が望みだったとされていて、恵瓊達の下衆の勘ぐりとされているのですが、本当のところはどうでしょうか?
この家康の本音がどこにあったかは別として、二百五十万石の大領を有していて国内最大勢力である徳川が実権を握り、他家への圧迫を強めていくのは想定できるところで、安芸・長門を中心に百二十万石を領有している毛利輝元は、一族の重臣・安国寺恵瓊に進言されたこともあって、石田三成たち奉行方と同心していき、豊臣と徳川という二大勢力による天下を二分する戦いへ踏み込んでいきます。
もっとも、安国寺恵瓊や石田三成も家康が豊臣秀頼を討ち滅ぼすということは考えていないらしく、鎌倉幕府における執権の北条一族のように豊臣家を傀儡化したうえで、邪魔な他の一族を滅ぼしていくというシナリオを描いてます。ここらにはおそらく、明智光秀の「大逆」の結末が当時多くの武将の意識に残っていたということではないかと推測します。
で、こうした情勢判断をもとに、安国寺恵瓊や石田三成たち五奉行のたてる「家康追い落とし」策が進められていきます。それはまず家康と同格の前田利家を担いで反徳川勢力を固めることから始まるのですが、健康に不安のあった利家が秀吉の死の半年後病没してしまったことから、恵瓊達のプランは大きく後退し、そこへ、家康と彼の謀臣・本多正信の反撃の策略が味方陣営を切り崩していくこととなります。
毛利輝元自身も、家中に、一度は家督を継がせる予定であったのですが実子が生まれたせいで取りやめた毛利秀元の存在や、安国寺恵瓊と対立する吉川広家、さらには、秀吉がかつて講じた一族離反策によって別家の存在となってしまった「小早川」といったウィークポイントを抱えています。
そして、いつの間にか、家康・正信に主導権を握られ、「関ケ原の戦」へと誘い込まれていくのですが、輝元や恵瓊・三成には、家康率いる東軍を一挙に瓦解させる一手があります。それは、豊臣秀頼本人自らの出陣という切り札なのですが・・という展開です。
戦力的にはほぼ互角(徳川秀忠の遅参を考えれば西軍優位)の情勢の中で、戦国時代末期、中国地方の大戦国大名で、豊臣恩顧の大名たちから総大将として頼みにされた毛利家がなぜ、ぐずぐずと崩れていってしまったのか、徳川幕府裏面史、敗者から見た「関ケ原」として、家康ファン、アンチ家康、どちらの派もおさえておきたい一冊です。
レビュアーの一言
毛利輝元が優柔不断な行動をせざるをえなかった原因となったのが、毛利秀元、吉川広家という一族内の二人なのですが、秀元は関ケ原後、長府藩主となって藩主を補佐するのですが、輝元の子・秀就の代になってから、藩主と対立して独立を計画し、藩主から処罰されそうになるのですが、秀元が将軍・家光の御伽衆であったため免れています。
吉川広家のほうは、関ケ原での東軍への内応で与えられることとなった周防・長門二国を領地没収となった毛利宗家に提供し、毛利家存続のために働いたのですが、封じられた岩国領が藩として認められていないにもかかわらず、幕府からは大名として扱われるといった微妙な立場になっています。
どちらにも、反徳川幕府の動きがおきれば、旗印として担ぎ出されかねない「毛利家」の力を削いでおくために徳川幕府の講じた一族離反策の臭いがしてきませんか。
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