本能寺の変、勃発。光秀の統治策の真相は・・ ー 宮下英樹「センゴク一統記 3・4」

落ち武者から一国持ち大名になりながら改易、それからさらに復活という戦国時代随一の復活劇を演じた仙石秀久こと「センゴク」の一代記を描いたシリーズのSeason3「センゴク一統記」の第3巻と第4巻。

いよいよ光秀が謀反し、本能寺で信長を討つという戦国時代最後のクライマックスへ。
この光秀の起こした本能寺の変は、昔から彼の動機が理解不能な部分があって、そこに光秀の「心身症による錯乱説」であるとか朝廷をはじめとした「黒幕説」が絶えない。
本書でも、日本統一の後、明国をはじめとした「唐入り」などの海外征服へ乗り出すときに、自分の腹心として日本を任すという設定になっているので、光秀が叛意を抱いた真相が気になるところであります。

【構成と注目ポイント】

第3巻の構成は

VOL.18 偽りの世
VOL.19 平穏と獣
VOL.20 天命を求めて
VOL.21 天道
VOL.22 信長包囲網
VOL.23 光と闇
VOL.24 生きる真意
VOL.25 愛執
VOL.26 答え

となっていて、まずは、本シリーズのお決まりの、何か大イベントがある前に、関係者の回想シーンということで、光秀の幼少期から青年時代までが描かれています。

光秀の出自について定かな説はないのですが、筆者は進士(土岐)信周の子と推理。信周は斎藤道三の国盗りの余波で領地を喪い、父も死去。このため、明智光隆の養子に入ったと考えていますね。

彼は養子に入った後、臨済宗の寺へ出家していだが、突如、寺を出奔し城へ戻ります。しかし、父親が領していた城は叔父の光安が実質的な支配をしており、光秀は城主の家系ではあるが、配下の武士と同様の扱いをされています。
この当時、美濃は斎藤道三と斎藤義龍が対立しており、光安は斎藤道三方なのですが、光秀は、夜の警護を押し付けられている時、義龍側に夜襲を進め、義龍軍の潜入を見逃し、城を陥とさせます。その目的は

ということのようです。

そして、故郷の美濃を弟とともに出奔。京都へ出、細川富士隆に仕え、この縁故での足利義昭に仕え、その後、信長に出仕するといったように次々と主を変えていて、まさに戦国時代の武士ならではの行動を見せています。さらに信長に使えていながら、義昭との主従関係は切れていないようなので、この辺に彼の複雑さが隠れているような気がします。

当時の信長は、尾張、駿府、美濃、三河を領する段階で、周囲の敵を抑えて上洛するという大言壮語を吐くのですが、ここで、光秀が信長の「天道は己が作るもの」の言、まず、大言を吐き、失敗しようと年月を経ようと大言の実現にこぎつけるという生き方に賛同したこととなっています。

このあと、釜ヶ崎の退き口、比叡山焼き討ち、朝井・朝倉征伐、長篠の戦と信長が天下一統に突き進むところを回想していきます。
で、こんな風に信長の生き方に賛同し、信長から信頼されていた光秀が信長の弑逆に向かったわけは「覇道を止める」「王道による秩序を回復する」ということであった、と本書は推測するのですが、ここらの詳細は原書でないと伝わらない感じがします。

続く第4巻は

VOL.27 恐るるなかれ
VOL.28 本能寺の変
VOL.29 謀叛
VOL.30 人間の輝き
VOL.31 本能寺炎上
VOL.32 神の失せし世
VOL.33 有為転変
VOL.34 天下の政道
VOL.35 秩序をもたらす者

となっていて、いよいよ光秀が手勢を連れて本能寺へ攻め入ります。

ここで彼が採った戦法は、当然「殺し間」を応用した攻め方で、今まで浅井、朝倉そして武田を葬ってきた織田勢の必殺の刃が信長に向かっていきます。

この切れ味のすさまじさには信長の近衛の武将も全く歯が立たず、信長は最期の時を迎えます。

ただ、信長を倒してからの光秀の統治方針が、当時としては斬新しすぎて迷走を始めます。明智光秀の目指す国の在り方は「天に君臨すれども統治せず」「政は下から上へ、民の声へと築き上げる」ということで

抽象的にいうと「下が天となり、天が下なる政」ということのようですが、光秀の盟友であった細川幽斎が、「故事にもない新しい政をつくる」と恐怖を抱いたように、いわゆる「易姓革命」を容認するもので、このあたりは、当時の支配層として受け入れられるものではなかったと思いますね。

この政策を実現するため、光秀自体は

①”政”の中枢をつくるー安土と京をおさえる
②軍事の基盤をつくるー濃尾、畿内の国衆を
③敵対勢力(柴田、羽柴、徳川、滝川、丹羽)との全方面戦争を、上杉・北条・雑賀・長曾我部・毛利による反対軍の包囲陣を敷いて展開する

という、彼らしい緻密な統治戦略、軍事戦略を立案しているのですが、どこまで実効性があるかどうかは、原書で確認してください。

【レビュアーからひと言】

明智光秀が本能寺での謀反を心に秘めながら、愛宕山連歌会に出席した時に詠んだ歌が、「時はいま 天が下知る 五月かな」というもので、これは「時=土岐」「天が下知る=天が下治する」といった意味にとるのだ、という話もあるのですが、本書によると、「下知る」のあたりは「天(下)を下が治る=民衆による統治」の提案といった具合に解釈するべきなのかもしれません。いずれにせよ、謎のまだたくさん残った事件ですので、読者それぞれが想像をたくましくすればよいものと思います。

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コメント

  1. ななし より:

    センゴクの光秀は信長を神のまま殺したかったように見えますね
    道半ばで死んだからこそ第六天魔王として今もあり続けるような気がします
    これが普通の戦場で死んでいたり病で死んでいたら評価は大きく変わってたかもしれません
    その後の日本も荒れていたかもしれません

    愛する信長公の衰えなど見たくなかったのでしょう

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