若き早雲は自領・荏原庄で領国経営のスカスカに気づくー「新九郎、奔る 4」

戦国時代の「下剋上」の典型として、堀越公方足利政知の息子・茶々丸を攻め滅ぼして「伊豆」を我が物にしたのを皮切りに、関東管領の上杉氏の家臣から小田原城を奪い取り、その後、相模国を領土とし、戦国大名の魁といわれる「北条早雲」の若き頃の姿を描く「ゆうきまさみ」の「新九郎奔る!」」シリーズの第4弾。

前巻で、兄の八郎が今出川殿(足利義視)の京都脱出に協力したために、叔父の伊勢盛景たち一族の手によって討たれたので、急遽、跡継ぎ候補となっての初仕事となる、所領の備中荏原郷の領地経営の姿が描かれる始めるのが本巻です。

【構成と注目ポイント】

構成は

第十七話 荏原郷 その1
第十八話 荏原郷 その2
第十九話 荏原郷 その3
第二十話 荏原郷 その4
第二十一話 荏原郷 その5
第二十二話 弦(つる) その1
第二十三話 弦(つる) その2

となっていて、まずは所領の荏原郷に赴任する二ヶ月前からスタートするのですが、思い立っても、すぐに出発できないのが戦乱のさなかのこの時代で、対立し合う西軍と東軍のどちらにも巻き込まれないよう配慮が必要になってきているわけですね。

そして、ようやくのことで、所領の荏原庄へ到着するのですが、当時の所領というのは、一族で一帯を治めていても、細かな境界とかは曖昧なままで、さらにそこの実質的に納めている国衆といわれる在郷武士は、戦国時代や江戸時代のような明確な主従関係ではないユルーい関係であったので、領主の代理として荏原庄にやってきた「新九郎」にとっては勝手の違うことばかりです。
一番は、荏原庄を東と西で叔父の家と分けて統治していたつもりが、領民たちは、叔父の家が全土を治めていると思っていたり、というところでしょう。ただ、ここらは、新九郎の家のほうに問題があって、叔父の盛景一家は頻繁に領地へ帰り、領民の争いを裁いたり、困りごとを解決したりとしているので、こちらのほうが領主らしいといえば領主らしい振る舞いですね。

ただ、不満と不安が溜まっていく「新九郎」と同じように、盛景一族のほうも、都では新九郎の父のほうが羽振りを効かせている上に、有力者とも親しいので、自分たちが圧迫されるかも、という疑惑まみれになっていきますね。

後に、新九郎は姉の嫁ぎ先の今川家の後継争いを仲裁するために、駿河に行くのですが、それ以後、伊豆に領土を確保して、この岡山県の荏原のほうとは疎遠になってしまうのですが、この領地をめぐる揉め事が遠因となっているのかもそれないですね。

【レビュアーから一言】

本シリーズの舞台は、戦国時代といっても、まだ鎌倉・室町の雰囲気を色濃く遺している頃なので、今回の舞台となる荏原庄でも、源平の合戦で、弓の武名をあげた那須一族の末裔が、この荏原庄で、一定の勢力をもっていたりしてます。(新九郎は、この一族の姫である「弦」と乗馬での騎射勝負に負けてしまって、荏原庄で有名になってしまうのですが)こうした古き伝統ある一族が圧迫されていった歴史と、新九郎こと北条早雲が台頭していくのとが重なったために、彼が「下剋上」の代表格とされたのかもしれないですね。

新九郎、奔る!(4) (ビッグコミックス)
舞台は京から荏原へ!新章、領地経営編!! 父・盛定の名代(代理)で領地・荏原...

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コメント

  1. 清水一風 より:

     早雲公没、64歳説で視ると彼の24歳までの歴史は無かったことになる。従って彼と備中荏原の関係は、土地争いがあるのみで、これは主に手紙のやりとりで済ませているはずである。15歳のときに法泉寺に出した「禁制」は、兄の貞興か、養父の貞道かもしれない。貞興は盛定の長男で、当時は正当な荏原の跡継ぎであり、名前も父より代々の通名である八郎盛時を受け継いでいた可能性が高い。これは花押が後の新九郎と大いに異なることからも判る。 兄の幼名は代々受け継がれた父と同じ「千代丸」であり、弟の新九郎は「宮千代丸」と付けられた。これは足利義視公と伊勢に落ちたとき、小倭の寺で12日間滞在し、その時、宮千代と詠んだ歌でわかる。義視公「袖に吹け都の秋の風の伝手」と詠み、侍らす児に「脇を」と促がす。とりあえず宮千代丸「紅葉や便り君に合いぬる」と返した。この時、宮千代丸わずか11歳の童児である。彼は従弟の大道寺重時家(宇治田原)で生まれ、9歳で義視公に仕えた。従って彼はおそらく備中に一度も足を運んでいない。父盛定は京都に赴任してから再婚し、次男の新九郎宮千代を産んだのである。彼は伊勢で変名し玉川を姓とした(「多気具教行状記」僧・宗阿作)。そのため、伊勢では盛時の名も冠名も出ないのである。彼は玉丸城下にわずかの地を拝領し、そこを宇治川の異名に因み「玉川邑」と付けた。後に4代将軍徳川家綱公に、「御医師」として江戸城に仕えた国司の後裔、佐田五左衛門家重は、彼が伊勢で名乗った玉川に肖りたいと、名を「玉川法眼」と改めた。これが伊勢から視た伊勢宗瑞の真実である。「相州兵乱記」に書かれた「出身は伊勢の伊沢(射和)也」は正しかったことになる。もう一度、彼の青少年時代は根本から見直す必要が出てきたと私は思う。

    • 清水勝也 より:

      後の調査によると、玉川村の命名は明治7年であり、それまでは吉祥寺邑と呼ばれた。この地に北畠氏の子孫が、三並氏から玉川に変名し、富岡村から移り住んだ。三並氏と佐田氏は元をただせば同族であるため、ともに早雲が伊勢で名乗った玉川を拝借したのである。彼が後に関東で出世したため、それに肖りたいとまず、佐田氏が玉川法眼と名乗り4代将軍家綱公に仕えた。そのあと、三並氏も姓を玉川にしたと思われる。一風

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