議論やディベートの意義は「論争」に勝利することではない — 斎藤 孝「頭が良くなる議論の技術」(講談社現代新書)

「議論」あるいは「ディベート」の技術が、必須のものとして扱われてきたのは、ここ最近のような気がする。以前は、口角泡を飛ばして論じ合うより、「以心伝心」や「男は黙って」といったことのほうが美徳のように語られていたものだが、グローバル化や、価値観が多様化が、こうした「議論」の技術の重要性を高めたのも一因であろう。
 
構成は
 
序章 ネットと議論 ネットの可能性
第一章 議論とは何だろう
第二章 議論のジャンル
第三章 議論の技術 基本は西洋流
第四章 新しい日本の議論
第五章 根本的な議論をしてみないか
 
となっていて、筆者によれば
 
「いつでもどこでも」楽しい議論をしたい。言うなれば「後味スッキリ議論」をいつでも現出させることができる技術。これが本書の目指すところ(P5)
 
ということのようであるのだが、本書は、「議論に勝つ技術」「議論に勝つテクニック」を披瀝するものではなく、
 
当時の(日本)陸軍では、ディベートや議論の訓練が行われていて、それが上手な人が出世の階段を上がっていくという構造があったのです。軍隊などというと、議論などおかまいなしにトップダウンで物事がガンガン決まっていくような印象を抱きがちですが、幹部たちは議論の練習を積んでいた、というのはちょっと驚きです。
しかし悪いことに陸軍では、中身が現実を反映していない空理空論のようなものがあっても、白いものをあたかも黒のように言いくるめるテクニックを持つ人が登用されていきました。それが非現実的な意思決定がされていく背景にあったともいわれています。これが日本を襲う悲劇を招いたのでした。(P48)
 
といった過去の反省から、「議論すること」そのものの大切さに立脚しているところであろう。そしてこの例から見ると、正しく議論し、正しく結論を導くことは、議論の技術論でではなく、「地に足のついた話をする」「議論で相手を嵌めない」といった、ビジネス道徳にきちんと立脚していることが前提であるような気がしてくる。
 
そして、「ディベート」や「議論」を扱う本は、ともするとディベートの勝ち方に重心をおきがちであるのだが、本書の
 
ディベートは確かに二手に分かれて意見を闘わせますが、そこには必ず聴衆がいて、どちらの主張が理にかなっていたかを判断するのです。
もしもディベートの結果、何らかの結論を導かなければならないという場合は、その役割を担うのは第三者の聴衆たちということになります(P61)
 
ということが意味する「議論で大切なのは「気づき」です。相手の意見によって、「気づき」が生まれ、意見を修正していくことです(P41)」という本質を外れずに、議論は手段であって、本質ではないということを肝に銘じておくべきなのだね、と思い知る
 
とはいっても、そこは手練の筆者であるから
 
プライドの扱いをしくじると、うまくいく議論も上手くいかなくなる(P134)
 
 
中には、発言を途中で遮られたことに怒り出す人もいます。そういうタイプの人に対してはいきなりカットインするのではなく、「まさにそうですよね」とどうしながらさりげなく話を引き取ってしまう。(P204)
 
あるいは
 
とっ散らかった議論を元に戻す時に使える言い回しというは、「まさにいま多彩な意見が堕されたことでわれわれの視野が広がりました。そこで今度はちょっと絞り込みに入りたいと思います」というようなものです(P205)
 
といったテクニカルな部分も、ちゃんと示してくれるのは、さすがベテランの大学教員であります。
 
「議論」や「ディベート」というと、往々にして「言い争い」や「人格攻撃」に陥ってしまうことが日本人的な議論にはよくあること。どうせ議論やディベートをしないといけないご時世であるなら、「上手な議論の方法」と「議論でしてはならないこと」を学んで、より実りある「議論」をやりたいものですね
 

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