戦国一、悲惨な籠城戦「鳥取城渇え殺し」 ー 宮下英樹「センゴク天正記 14」

落ち武者から国持大名へ、その後、戦で大敗北して改易。そこから復活して、徳川将軍家の相談役まで昇進した戦国一のジェットコースター人生をおくった「センゴク」こと「仙石秀久」の半生記が描かれる宮下英樹の「センゴク」シリーズのSeason2「センゴク天正記」の第14巻。

荒木村重の逃亡、三木城の陥落を経て、織田・毛利の激突の初手となり「鳥取城」の攻防戦。前巻で、一旦は織田勢に降伏していた山名豊国を追い出した家老たちの要請を受けて、毛利が自軍の若き知将・吉川経家を新しい城番として派遣したのだが、「毛利に味方はするが、介入は許さない」というかなり身勝手な城方の申し出でわかるように、かなり苦しい守戦が予測される吉川経家と、三木城陥落後、しっかりと策を練っていた秀吉軍との、鳥取城を舞台にした織田・毛利の実質的な激突が描かれるのが、この巻である。

【構成と注目ポイント】

構成は

VOL.130 鳥取城包囲陣
VOL.131 太閤ケ原
VOL.132 補給合戦
VOL.133 両川迫る
VOL.134 ヤマイヌの計
VOL.135 囮の犬
VOL.136 真の狙い
VOL.137 哀れなる有様
VOL.138 鳥取城降伏開城
VOL.139 銭を知る者

となっていて、前巻を受けて、秀吉、太閤ヶ平へ布陣するところからスタート。ここは櫓(やぐら)がなくても、目と鼻の先に鳥取城が見下ろせるところ。
城方にとっても脅威なのだが、そんな近くの布陣は羽柴勢にとってもおっかなびっくりであったろうと推測されますが、どうやら、吉川経家に秀吉軍の威容を見せて圧迫する、という意図もあったようです。

ここで、石田佐吉が補給路の確保と封鎖の錯塩を提案するのが「干殺しの戦法」。城を取り囲んで、兵糧が尽きるのを待つ消耗による殲滅戦ですね。
ただ、最前線で敵と近距離で対峙している現場の軍にとってはたまらない恐怖感が続くわけで、

という石田佐吉への反発は必至ですね。さらに「兵を鼓舞するのが前線の将の仕事。鉄砲で敵を倒すより、鉄砲を確保したことが大切として、「槍働きは無用」と言い切るあたりには、当然、前線の各将軍は怒り心頭に達するのも無理のないところでしょうね。
ここでセンゴクが石田を殴り倒して、なんだかぐちゃぐちゃのうちに場は収まるのですが、秀吉は、センゴクが殴らなければ双方収まらなかったと容認します。
ただ、このへんから巨大化してきた羽柴軍の中で、すでに「武」の側と「文」の側との対立が芽生えてきていることがわかります。

この後、合戦方と帷幄方を取り結ぶ武将として、センゴクの単純さが買われて、彼は最前線に立つこととなります。ここから本格的に、秀吉軍と鳥取城方とのせめぎあいが本格化します。

一方、守る側の主将・吉川経家は城の守将たちへ、秀吉の作戦は城を囲んで囲城戦、籠城戦で、補給路の確保するたけの戦闘が大事と言うのですが、反対にあいます。

後になってわかるのですが、城方の守将は。経家が裏切って秀吉に降伏するのでは、と疑っていて、

当然、経家は激怒するのですが、ここらが、もとの領主である「山名」が追い出された後に、鳥取城へ入ってきた毛利方なので、城全体が一枚岩にはまだなっていないようですね。
このときには、すでの石田佐吉はその計算能力の高さを使って、鳥取所の兵糧の量を割り出しているので、ここらで補給路の大事さを鳥取城方が気づかないと手遅れになるのですが・・・。

鳥取城の兵糧が乏しくなりつつあることを見抜いた羽柴軍は、石田佐吉と黒田寛兵衛の提案する「ヤマイヌの計」をしかけます。これは、周囲を取り囲まれてしまっている鳥取城に対して海からの食料補給を狙う「毛利方」の動きを封じ込める作戦でもありますね。

このヤマイヌの計に従って、センゴクは鳥取城近くまで攻め入っていきます。このセンゴク隊の動きを吉川経家は、「囮」と見破っていて、鳥取城近くの「雁金の砦」が本当の狙いではと考えています。この砦をセンゴク隊を囮にしておいて、秀吉本隊が襲い、雁金の兵を鳥取城と丸山城に逃げ込ませ、乏しい兵糧をさらに削る作戦とみているわけですね。なので、センゴク隊に引き続いて、秀吉本隊が鳥取城へ攻め入る様子をみせても、経家は動きません。秀吉本隊は、早晩、「雁金砦」に向かうとみているので、そこへ向かった背後を襲おう、と予測をたてています。

ところが、黒田勘兵衛たちの戦略は流石に畿内や播磨の激戦を乗り越えてきているだけあって、さらなる仕掛けを施されているのですが、ここから先は原書のほうで。

この後、毛利の補給の道も閉ざされ、鳥取城に籠城というか、むしろ籠もらされた感のある吉川方は、飢餓状態の中で、馬どころか人まで食い合うという修羅場が城内に現出するのですが、本書ではそこまでのスプラッタな描写はされていないので、ご安心を。

ただ、もともと、この鳥取城攻めは、織田家と籠城戦を展開した後、降伏・臣従しようとした前城主の山名豊国を、家老で国侍の有力者である森下、中村たちが追い出して毛利へ加勢を頼んだことに端を発しているのですが、彼らが城主追放を行った動機が、織田勢の降伏の条件が所領の1/4への縮減と、その後の検地による所領没収のうわさにおびえてのことであったようで、新しい道に行くことにおびえて、玉砕してもかまわぬ、といったことが本音のようです。

なにやら、伝統ある組織が崩れていく時に、よく見聞きすることではありますね。

そして、城内の民、兵士が飢えで全滅することが見えてき、城主の吉川経家は降伏を決断します。

このときの秀吉の出した降伏条件は、前城主を追い出した森下、中村の処罰のみで吉川経家以下は赦免するという条件を、どういうわけか経家は蹴ります。

その理由は、この後の織田・毛利の関係を深謀遠慮した上での行動だったようですが・・・。

ともかく、「渇え殺し」で名高い鳥取城攻めはここで終了します。

【レビュアーから一言】

豊臣秀吉というと、貧しい境遇から、信長に取り立てられて才能を発揮し、どんどんと出世し、といった明るい側面が強調されるのですが、彼が中国攻めののときに考案した城攻めの仕方は、三木城や鳥取城の包囲戦による兵糧攻めや、備中高松城の水攻めなど、自らの兵力を温存しながら、大兵力をつかった物量戦が目立つようになりますね。ここらで、センゴクたちの武闘派の求める「戦」の有り様とは違った形になっているように当方としては思います。

軍略の中心が竹中半兵衛から黒田官兵衛へ、さらには石田佐吉といった能吏派へと変わっていったことと、ひょっとすると関係があるのでしょうか、それとも、信長の指揮を外れ、秀吉の自らの戦の性向が出始めたのでしょうか・・・。

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