手習所の新米女性「校長先生」は大奮闘ー西條奈加「銀杏手ならい」

今の文京区小日向町あたりにあった「小日向水道町」で、武家から、職人、商人、農民までの幅広い層の子どもたちが通う小さな手習所「銀杏堂」を舞台に、その手習所を営んでいた父から手習所を受け継いだ、出戻りながら、まだ若い女先生・萌の、頼りないがひたむきな「校長先生」生活を描いたのが本書『西條奈加「銀杏手ならい」(祥伝社文庫)』です。

構成と注目ポイント

構成は

「銀杏手ならい」
「捨てる神 拾う神」
「呑んべ師匠」
「春の声」
「五十の手習い」
「目白坂の難」
「親ふたり」

となっていて、まず第一話目の「銀杏手習い」では、この「銀杏堂」のいわれや登場人物の紹介がされていきます。

それによると、この「銀杏堂」は「萌」の父・嶋村承仙によって開設されたのですが、彼はもともとは武家出身でなく、川越の生糸問屋の次男であったのですが、商売嫌いで学問好きが嵩じて江戸へ出て学問を修めたという設定です。そして、その学識がかわれて、ある旗本の家で教えていたところ、ちょうど行儀見習いに来ていた御家人出身の「美津」と知り合い、三津が御家人の父母を説得して一緒になり、この小日向水道町で、手習所を開き、承仙が子どもたちに手習いを、美津が近所の娘に、礼儀作法と茶の湯・生花といった花嫁修業を教えている、というところで、父親の承仙が早い隠居をして、子供ができないため離縁されて出戻っていた「萌」に手習所を任せた、といった設定です。

物語のほうは、まず、新米「校長」である「萌」が、手習所の「悪童」二人が、自分たちが選んだ手習いの教本だと称して、「黄表紙」つまりは今の「エロ本」を読み上げて、「萌」を赤面させるところから始まります。若くて、頼りない「萌」をからかってのことですが、まだ子供の二人は、萌の母親で、行儀に厳しい「美津」に見事に粉砕されることになりますね。さらに、ここで、「萌」が承仙と美津の実子ではなく、拾い子であることが判明します。

二話目の「捨てる神 拾う神」では、銀杏堂の象徴ともいえる「銀杏」の木の根本に、赤ん坊が捨てられているのが見つり、その子をどうするかで、「萌」が悩みに悩む話です。萌は一度結婚しているのですが、子供が出来ずに離縁されている身の上なので、子供を育てた経験は皆無なので、なかなか引き取る決心がつかないのですが・・・という展開です。

三話目の「呑んべ師匠」では、銀杏堂に通っている両替商の息子・伊三太は、算術が得意で、親も商売に役立つと喜んでいます。そろそろ、手習所を卒業する歳になって、両替商の見習いをすることになるのですが、伊三太は家を継ぎたくないと悩んでいます。さて、「萌」先生はどんなアドバイスを・・・という展開です。近くの、手習所から落ちこぼれた子供たちを集めて教えている「椎葉」の教育方法が、萌にとって「目鱗」のヒントになりますね。

四話目の「春の声」では、銀杏堂を辞めて有名な私塾に通っている元の教え子・りつに、今の私塾の師匠は厳しくてつていけない、という悩み事を聞きます。そのお師匠さんは、かつて大奥勤めもし、祐筆を勤めた「茂子」という名前の才女。萌は、茂子先生に「りつ」のことを相談しようとするのですが、萌の教育方針そのものから粉砕されて・・・という筋立てです。一度は自信を失う「萌」なのですが、自分なりの途を見つけなおす展開ですね。

五話目の「五十の手習い」は、流行病で父親を失ってしまい、気力を失ってしまった母親の代わりに弟妹を養うために、玉子売りで生計をたてることになった「信平」という教え子が手習所を辞めることとなります。彼は伊勢型彫りの職人になりたかったのですが、職人の見習いをしている間は収入がないため、仕方なく断念せざるをえない、というところですね。彼の希望と家計の両方を解決するため、萌先生が考え出した方法は・・というところなのですが、詳細は原書のほうで。

六話目の「目白坂の難」では、第一話で萌先生を困らせた悪童の「増之介」と「角太郎」もいよいよ卒業の頃を迎えたのですが、下級生の「桃介」が病弱な姉のために薬代をかせごうとして始めた薬草探しを手伝おうとして、桃介やなお、さちといった手習所仲間と一緒に、大名屋敷の中の森で遭難する話です。ネタバレを少しすると、子供たちは野犬に襲われるのですがなんとか無事に森を抜け出すことに成功するのですが、これが悪童二人が、これからの生き方を見直すきっかけになります。

最終話の「親ふたり」では、第二話で銀杏堂に捨てられていた子供・美弥も大きくなって、よちよち歩けるようになっています。彼女を連れて、銀杏堂の近くの寺社の門前を歩いていたところ、知り合いと萌が話をしている隙に、誰かに「美弥」が連れ去られてしまい。という筋立てです。さらに、彼女の産みの親が出現して、問題がさらに複雑化していくことになりますね。

レビュアーから一言

手習所というのは、主に江戸をはじめとした地域の呼び名で「手習指南」「手跡指南」ともいっていたようですが、現在は、関西で使われていた「寺子屋」という呼び名のほうが一般的かもしれません。
機能的には、子どもたちに簡単な読み書きや算術、礼儀作法を学ばせるところで、時代小説の浪人の主人公の職業としてよくあるパターンのものですね。なぜ、「屋」という名称を使わなかったというと、武家の出身の師匠が多かったせいか、商売を営む「商家」の屋号のイメージを嫌った、という説が有力のようですね。
ここらにも、武家の数が多く、武士の文化が厳然としてあった江戸と、商人が中心となった上方との違いがでているのかもしれません。

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