茂兵衛は「旗指」に出世するが、初恋の行方は?ー「旗指足軽仁義 三河雑兵心得2」

三河の国の、まだ小国の領主であった松平(徳川)家康の家臣団の最下層の足軽として「侍人生」をスタートさせた、農民出身の雑兵「茂兵衛」。吹けば飛ぶような足軽を皮切りに、侍としての出世街道を、槍一本で「ちまちま」と登っていく、戦国足軽出世物語の第二弾が本書『井原忠政「旗指足軽仁義 三河雑兵心得」(双葉文庫)』です。

前巻で生まれ故郷の村から追い出され、一向一揆派の夏目吉信の家中に潜り込んで、兜首をあげるなどの功をあげ、一揆側と家康との和睦後、夏目吉信の推薦で、家康配下の猛将・本多平八郎の足軽となった茂兵衛の、次の「ステップ」に向けた、泥臭い活躍が描かれるのが本巻です。

あらすじと注目ポイント

今回のメインの「戦」は掛川城攻めと姉川の合戦

構成は

序章 遠州曳馬城攻め
第一章 掛川城を抜く
第二章 城将狙撃
第三章 姉川前夜
第四章 姉川の夏
終章 北方の虎に備える

となっていて、茂兵衛が仕える本多平八郎の主君・徳川家康は、前巻の大トピックであった、三河一向一揆を鎮圧後、岡崎周辺の西三河を基盤としたながら、東三河、奥三河と、今川氏の勢力を切り崩しながら三河を平定し、同盟者の織田信長にくっついて上京も果たし、徳川家はだんだんとう上向き路線に向かっているところです。

曳馬城で初恋の美女に出会う

目下の敵は、武田氏と今川氏なのですが、今巻の冒頭部分では、武田氏について徳川と戦っている「曳馬城」攻めに参画する本多平八郎軍の一員として茂兵衛も従軍しています。この時には、猛将で乱暴者で有名な本多平八郎の気に入られて、近衛隊的な扱いになっていて、本多の「旗」も預かっているようです。このあたりは、茂兵衛の運の良さと人当たりの良さが功を奏していて、この二つは下っ端足軽の出世の必須条件のようです。

この「曳馬城」攻めでは、前城主の妻で、今は城主代わりを務めている「田鶴姫」の侍女「綾女」の命を落城の折に救うといった、茂兵衛には珍しい「ラブ・ロマンス」の種を拾っているのですが、この恋の結末がどうなるかは、本書の随所に出てくるのでそちらのほうで。少しだけネタバレしておくと、城を落とした「敵方」というのが最後まであとを引きます。

掛川城攻めで、敵将の狙撃を企画する

戦のほうは、巻の前半部分は、武田氏によって滅亡状態まで追い込まれた今川家の当主・今川氏真が逃げ込んだ掛川城攻めの様子が描かれます。この掛川城の城主・朝比奈奏朝という武将は、落ち目になった今川家を最後まで見捨てずに支えた人ですね。お父さんの泰能も、今川義元を東海一の大大名に押し上げた今川の大軍師・太原雪斎の後継とまでいわれた人で、まさに今川家の支柱といえる一族です。

守りが固く、なかなか陥とせない掛川城なのですが、敵方の攻守の中心である朝比奈泰朝が城兵の激励のために見回りをする時を狙って狙撃する作戦を、茂兵衛が中心となって計画・実行します。遠目のきく弟・丑蔵と、銃による狙撃の名手である、旧主・夏目次郎左衛門の家臣・大久保史郎九郎と協力して、泰朝狙撃に成功するのですが、この時茂兵衛を後ろから狙う者がいて・・というのが前半部の展開です。

姉川の合戦での茂兵衛の戦果は?

後半部分は、信長の浅倉攻めに始まって、浅井の裏切り、姉川の合戦と続く、織田vs浅井・朝倉の戦いが描かれます。
ただ、茂兵衛は、掛川城攻めでの鉄砲傷による負傷があったため、今回の朝倉攻めには従軍しておらず、浅井長政の裏切りによって始まる「金ヶ崎の退き口」は、経験せずにすんでいます。

この「金ヶ崎の敗戦」からほぼ一月後、織田勢から半ば強制的な援軍要請がかかり、徳川勢は浅井・朝倉軍と戦うため、琵琶湖周辺に進軍するのですが、ここで注目したいのは、平八郎と茂兵衛の

「岐阜から琵琶湖湖畔まで、十里(約四十キロ)あるかないかだそうな」
(中略)
「岡崎からはどれほどか?」
「岡崎から琵琶湖まで・・三十里(約百二十キロ)のうかがっております。」
「ほうだら、三十里よ・・三倍だがね」
(中略)
「間尺に合わんがや」

というところで、後世から見ると、信長の同盟軍である家康が姉川に出兵したことは当然、と思ってしまうのですが、武田勢が攻め入るかもしれない危険を覚悟の上で、軍を率いていく徳川勢にはかなりの負担が強いられていることがわかりますね。本多平八郎は、織田嫌い、信長嫌いで有名で、いたるところで不満を爆発させているのですが、これは彼だけが抱えていた鬱憤ではなかったかもしれません。

ただ、この姉川の合戦におけ三河勢は、相手が戦意が浅井勢に比べて劣るながら北国の強兵集団である朝倉勢相手に善戦しています。茂兵衛のほうも、兜首をとるほどの手柄はあげていませんが、具足や兜をちゃっかり確保しています。

しかし、この戦で、茂兵衛が十年間のうちに千石取りにならないと首を引っこ抜いて、茂兵衛が野場城の籠城戦で討った横山軍兵衛の墓前に供えると、主の平八郎が息子の左馬之助に約束したので、もうお尻に火が付いた感じですね。江戸時代の中期、幕府の「旗本」が5000人ぐらい、「御家人」が13000人ぐらいいる中で、千石以上の旗本は800人ぐらい、約4%ぐらいしかいなかった(参考サイト:ビバ江戸「江戸の旗本・御家人」)のですから、かなりの狭き門。茂兵衛は大出世をとげないといけないですね。

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レビュアーの一言

織田信長の朝倉攻めに際しての、浅井長政の信長に対する「裏切り」については、旧習や昔ながらの血縁や繋がりに囚われて、新興の勢力である信長の実力を見誤ったという声が強いのですが、今シリーズの筆者は

「あの鼬めが・・・かぶっておった善人の仮面を脱ぎ捨ておったか!」
と信長は長政を罵ったが、これは著しく公正を欠いた見方である。今回の裏切りの究極にあるものは、長政の義理堅さに他ならないからだ。

と長政に好意的な評価を下しています。もともと、浅井家は創業当時から朝倉家に支援されていたという深い関係性を知りながら、浅井に断りも入れずに「朝倉攻め」を決めた信長のほうもかなり乱暴で、自分勝手なことは間違いありませんね。まあ、こういうお殿様と同盟を続けていった家康さんも相当の人物ではありますが・・。

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