茂兵衛は「和平派」として徳川武闘派・本多平八郎と絶縁状態=井原忠政「上田合戦仁義 三河雑兵心得」

三河の国の、まだ小国の領主であった松平(徳川)家康の家臣団の最下層の足軽として「侍人生」をスタートさせた農民出身の「茂兵衛」。吹けば飛ぶような足軽を皮切りに、侍としての出世街道を、槍一本で「ちまちま」と登っていく、戦国足軽出世物語の第九弾が本書『井原忠政「上田合戦仁義 三河雑兵心得」(双葉文庫)』です。

前巻の小牧長久手の戦で、豊臣勢の猛将、鬼武蔵こと「森長可」を狙撃して落馬させるなど大活躍を見せた茂兵衛たちだったのですが、武略的には優勢に終わった戦のはずが秀吉の政略によって一転して劣勢に立たされた徳川勢です。その中で、秀吉との和睦と家康の上京を訴えた茂兵衛は、臆病者と非難され家中での立場が弱くなってしまったのですが、そのせいで戦後処理と、その後の東国戦役に巻き込まれていきます。

あらすじと注目ポイント

構成は

序章 三河殿は律義者で
第一章 於義丸
第二章 天下人の城
第三章 上田合戦前哨戦
第四章 上田攻め
終章 茂兵衛、討死ス

となっていて、まず前半部では、秀吉と徳川との戦力差を分析して和睦の途を提案したがために、すっかり徳川家中で「臆病者」と非難され、旧主であり長年仲の良かった本多平八郎にすっかり嫌われてしまった茂兵衛です。本多平八郎は家中きっての「主戦派」なので無理もないのですが、主君の家康は、自らは和睦やむなしと思いつつも、家中の不満のガス抜きをするのに、茂兵衛を使った気配が濃厚です。

このため、秀吉側から申し出のあった、家康の次男・於義丸を養子として豊臣へ差し出す(実質的には人質ですね)ための、上方への護衛の任務を、石川数正とともに命じられることとなります。

本巻では「於義丸」は、負けん気が強くて、賢い子供として描かれていて、今回の護衛で、茂兵衛は配下の足軽小頭をさせている鉄砲の名手「小栗金吾」を近習として引き抜かれることと、計略と交渉の才では一目置かれつつも、一向一揆に加担して徳川家を出奔した経歴と陰気さで家中で人気のない石川数正と昵懇になったのが、今回の護衛業務の成果といえるのでしょう。

この後、於義丸は秀吉の養子となって九州征伐や北条攻めに参陣した後、名門・結城家をついで11万石と大大名となっていますし、石川数正は家康の懐刀として用いられていたのですが、天正13年に家康の元を出奔し、秀吉に仕えているのですが、家康と示し合わせて豊臣家内へ入りこんだとい噂もあるので、これからの上方や関東でのつなぎを取っていく上で、茂兵衛が貴重な役割を果たしていく基礎となるのではないでしょうか。

そしぇ、もっと驚くべきことが、大阪城へ於義丸ちが入城している間、待機していた大和川沿いの「鴫村」で野営中に起きます。村近くの高台に陣を張っている茂兵衛たちのもとへやってきたのは「でなんご」と名乗る五人の屈強な護衛に囲まれた、金襴の羽織袴と頭巾を被った小男だったのですが、彼の正体と来訪の目的は意外にも・・という筋立てです。茂兵衛たちは、この人物の到来は「なかったこと」にするのですが、ちょっと後を引きそうなエピソードです。

物語の後半は上方から転じて、東国へと移ります。東国では、織田信長が本能寺に斃れた後おきた「天正壬午の乱」での旧武田領の奪い合いがまだ決着しておらず、とりわけ、徳川・後北条・真田の間には、現在の群馬県沼田市周辺である「沼田領」問題が横たわっています。

秀吉たち上方勢への対抗上からも、後北条氏との関係を有効に保っておきたい家康は、沼田領を北条へ引き渡し、代わりに駿河の大井川近くに替え領を提供しようという提案を真田昌幸にのませるため、家康は大久保忠世の手勢を率いて甲府へと向かいます。この軍勢に、大久保忠世の寄騎である茂兵衛も同行した、というわけですね。

家康は、沼田領の返還をしぶる真田昌幸を半分脅して説得するのですが、「表裏比興之者」として有名な昌幸のこと、正直にその約束を果たすかどうか疑わしいため、信州惣奉行の大久保忠世の命令で、茂兵衛は上田城に毎日通い、茶飲み話をしながら真田の監視を務めることとなります。

茂兵衛の前では、家康への忠節を明言する真田昌幸だったのですが、ある日突然、直接、家康へ衝撃的な書状を差し出します。
ここから、徳川と真田との関係は急変し、茂兵衛たちは一挙に再び戦乱の渦中に巻き込まれていくのですが、「上田攻め」の詳細は原書のほうで。
ちなみに、最後半で衝撃的なことがおきるので、最期まで気を抜かないようにしましょうね。

三河雑兵心得(9)-上田合戦仁義 (双葉文庫)
主命とはいえ、秀吉との和平を進言し、家内ですっかり孤立してしまった茂兵衛。 お陰で、家康の次男・於義丸を大坂まで送り届けるという損な役目まで命じられてしまう。 一方、かねてより懸案だった沼田領の帰属をめぐって揉めに揉め、ついに真田昌幸が徳川...

レビュアーの一言

自他共に「表裏比興之者」として、裏切ることが常であることが世間でよく知られている真田昌幸なのですが、上田城での茂兵衛との酒盛りの席で

「嘘とか、騙しとか、調略とか申すものは、相手が乗ってナンボだからな。お分かりになるか?」
「はあはあ」
実はよくわからない。
「正直者がつく嘘だからこそ、相手は騙される。表裏比興之者が嘘をついても、端から誰も信じん。誰も引っかかってこん。ま、嘘がつき難うなったということじゃ」

と「表裏比興之者」としての悲哀をこぼした後、「もうワシには信用がないのじゃ。今さら、上杉には転べん。真田はもう、地獄の底まで徳川につき従うしかないのよ」といっておきながら、どんな行動にでたかは、歴史が教えてくれるところです。
こういう人物と、忠義者でしられる「三河侍」とが相容れるはずもなかったでしょうから、真田昌幸・幸村親子との関が原と大阪冬・夏の陣での「大抗争」は当然のことだったような気がします。

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