いじめは「倫理」や「理性」だけでは解決しないことを認識すべきか? — 中野信子「ヒトは「いじめ」をやめられない 」(小学館新書)

いたましい自殺が相次いでも、なくなる気配をみせないのが「いじめ」。なくならない原因や根絶策があれこれ議論されるのだが、そこに、生物学的アプローチを持ち込んだのが本書。

構成は

第一章 いじめの快感
 第一節 いじめのメカニズム
第二章 いじめに関わる脳内物質
 第一節 オキシトシン
 第二節 セロトニン
 第三節 ドーパミン
第三章 いじめの傾向を脳科学で分析する
 第一節 いじめられやすい人の特徴
 第二節 いじめがより深刻化するとき
 第三節 男女のいじめの違い
 第四節 学校現場のいじめの現状
第四章 いじめの回避策
 第一節 大人のいじめの回避策
 第二節 子どものいじめの回避策
 第三節 教育現場における環境的回避策

 

いじめの本質にあるものは

冒頭のあたりで

もしかしたら「いじめを根絶しよう」という目標そのものが、問題への道を複雑にさせているのではないでしょうか。
「いじめは『あってはならない』ものだ」と考えることが、その本質から目をそらす原因になってしまっているのではないでしょうか。

といった提言に少々ドキッとする。

 

もちろん、筆者の言いたいところは、「いじめ」の肯定では当然なくて

近年、こうした人間集団における複雑かつ不可解な行動を、科学の視点で解き明かそうとする研究が世界中で進められています。
その中でわかってきたことは、実は社会的排除は、人間という生物種が、生存率を高めるために、進化の過程で身につけた「機能」なのではないかということです。
つまり、人間社会において、どんな集団においても、排除行動や制裁行動がなくならないのは、そこに何かしらの必要性や快感があるから、ということです。

といったように、この問題を「倫理観」や「哲学」あるいは「教育」の側面だけで考えるのでなく、生物学的なアプローチ、すなわち、この排除活動が我々に遺伝子に組み込まれてきた理由とか、この排除活動をすることと、オキシトシンなどの分泌などが関連していることなどの科学的アプローチ、心理学的アプローチでも捉えることの重要性を訴えている。

そして、

もともとセロトニントランスポーターS型が多い日本人です。
慎重型、体制順応型が多い日本人の、裏切り者検出モジュールの検出基準は、いじめる人も、いじめを傍観する人、さらには担任の先生も、それほど違いはありません。
ですから、オーバーサンクションを受ける人の、いじめる側が指摘する部分に、それらの人が無意識に同調してしまうということがあります。

といったところは、「民族的な遺伝形質」とも無縁ではないことを教えてくれるのであるが、こうなってくると、「いじめ問題」の解決には、学校単位や市単位の議論ではおさまらない気がしてきて、少々暗澹としてくる。

 

かといって、国レベルの広域的な議論で解決するか、というと文科省はじめ国においてもスローガンや教育委員会へのお達しは目にするものの、決め手となるものは見当たらないような気がするところが問題っちゃ問題ですな。

 

ただ希望のタネと思うのは、イジメは生物学的な要素や民族的な要素もあるということは、いじめられている当人が自分に責任があるんじゃ、などと悩む必要はないということでもある。

ならば、理不尽な圧迫からは逃げ出すことも、立派な防衛手段になるということ。だって、時の政府が弾圧してきたときに、亡命するってのは

 

いじめへの対処法は

もちろん本書でも、いくつかの対処方法は示されていて、

・類似性を刺激しないために、たとえば「若さ」とか「女性らしさ」を強調しすぎない

・獲得可能性を下げるために「この分野はあの人には敵わない」と思わせるためにプロフェッショナルであることを演出する

・自分を「斜め上から目線」で観察し、自分の行動を考えたり制御する。自分はどういう類いの人間で、周りからどう見えているのか、どう思われているのか、自分の発言で周りの人にどういった影響を与えるのかなどを考え、自分のとるべき言動を判断する。

といったものなのだが、どちらかというと個人的な防衛策に力点があるように思えるのは、「いじめ」のもつ「構造的な原因」ゆえであろうか。

まとめ

いずれにせよ、この問題、依然として教育あるいは社会的に暗い側面を増してくることは間違いない。

案外に、本書にいうように「不寛容は理性や知性によって克服できるはずだと考える人もいるかもしれませんが、脳の仕組みからは、それは極めて困難です。」といった生物学的な限界・性向をきちんと認識しながら、医学的、生物学的な対処方法を考えていく、そんな方法論が必要なのかもしれない。

そうした時、そんな分析体制や検討体制が、市レベル、県レベルでつくれるかとなるとちょっと心もとない。とりわけ、臨床医学でなく、実践的な脳科学も含めた研究者たちの関与を入れようと思えば、ここは国レベルの関与が必要担ってくるように思う。

 

その上で、「いじめ」の地域性という面も否定できないから、県あるいは市といった「地域」の目線をいれることのできる主体がそれに乗っかってくという構図が一番好ましいのではないだろうか。

 

少なくとも、当事者たちが寄り集まって議論する場だけで、原因分析と解決策を考えさせていても、全く有効打にならないような気がしますが、いかがでありましょうか。

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