「愛」「正義」「協調性」は脳内物質の仕業にすぎない ー 中野信子「シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書)

「サイコパス」や「脳内麻薬」あるいは「ヒトは「いじめ」をやめられない」などの著作で、おせっかいにも、我々が信頼してやまない「人間性」や、理性があれば抑制できると思っている「不健全な感情」が、実は、脳の中に生成される「薬物」の仕業であることを明らかにしてくれた著者・中野信子先生なんであるが、今回は、人間の社会生活の善の部分を支えているともいえる「愛」や「正義」の感情についてメスを入れたのが本書『中野信子「シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書)』である。

【構成は】

第1章 シャーデンフロイデ
第2章 加速する「不謹慎」
第3章 倫理的にあるということ
第4章 「愛と正義」のために殺し合うヒト

となっていて、表題の表題の「シャーデンフロイデ」とは「誰かが失敗した時に、思わず湧き起こってしまう喜びの感情のこと」で、悪いこととは思いつつも、誰もが思い当たる節のある感情である。
本書は、こうした感情がなぜ起こるか、といった脳科学的な解説から始まって、「妬み」感情と「愛」や「正義」との関係性や「愛」や「正義」の持つ「負の部分」について言及されていくのであるが、良識的なところがグラグラ揺さぶられるので、ご注意いただきたい。

【注目ポイント】

本書は、「まえがき」の

「愛」や「正義」が、麻薬のように働いて、人々の心を蕩かし、人々のリ性を適度に麻痺させ、幸せな気持ちのまま誰かを攻撃できるようにしてしまう
愛は人を救うどころか、それに異を唱える者を徹底的に排除しようという動機を強力に裏打ちする、危険な情動です

といった、かなり「危ない言葉」からスタートする。

というのも、本書によれば、

オキシトシンは、愛情ホルモンとして人と人との絆を強める一方で、ここでご説明した一方のネガティブ感情である「妬み」を強めてしまう働きも持つのです

ということのようで、実は「愛情」と「妬み」は、脳内ホルモンの作用の現れ方の違いに過ぎず、我々が抱く「人間性の崇高さ」が意外にそんな立派なものではなく、生理現象の一つかもしれないことを明らかにしてくる。

そして、さらには、「協調性」の高低についても

分解酵素の活性が高いタイプを持っている人は前頭前野にドーパミンが残りにくく、逆に活性の低い人ではドーパミンが残りやすくなります。  そのため、分解酵素の活性が高く、ドーパミンをたくさん分解してしまうタイプの人では、前頭前野の機能である意思決定が「楽しい」とは感じにくくなってしまいます。どちらかといえば、前例に従ったり、あらかじめ決められたルールに従ったりすることのほうが良いと感じる、というわけです。逆に、分解酵素の活性の低いタイプを持っている人たちは、自分で意思決定することが楽しいと感じられ、従前のやりかたを踏襲することにあまり魅力を感じません。

と身も蓋もない生物学的な差異であるようだし、また時折暴走してしまう「正義」の感情についても

実は、私たちの脳は人から承認してもらうことでドーパミンが大量に放出され、その快楽はセックスと同等かそれ以上であることがわかっています。  この快楽を得るために、最も効率がいいのが「匿名で誰かを叩いて、それが多くの人から賛同してもらえる」というものです。
自分とはほとんど関係のない物事について社会正義を執行することで、見も知らぬ人々から賛同を含めたフォローを得られるのですから、その喜びと満足感は非常に大きいものとなります。

といったふうで、人間社会が培ってきた「美徳」の部分が実は、脳内物質の誘導や生物学的な要素によるもので、それは分泌の具合によっては、「社会的な仲間はずれ」や「毒親」的な行為に、簡単に変質してしまうということであって、なんとうすら寒く、ザラザラした気分になってきてしまうのである。

そして、極めつけは

生存を企図する場合、ヒトにとって集団を維持することは至上命令です。攻撃に伴うメリットをなんとしても捻出する必要がありました、それが社会的排除を執行する際に脳で生み出される「快楽」です。
(略)
普通は、オキシトシンの作用は、仲間意識を高める、愛情を表す、幸せを感じるなど、よい場面で働くものと考えられています。しかし一方では、妬み感情を高めることもわかってきました

とし、

オキシトシンによる「愛」があふれ出たときに、人は思いやりに満ちた行動をとる一方で、ひどく不寛容にもなっていきます。「あなたのため」という愛は、実は自分の脳の快楽のためであり、自分の所属集団を守るためであり、それを阻む者を許すことはできないからです。

ということとなると、「平和な社会の確立」といったことは、理念的な話だけではなく、脳内物質の影響を考えながらのアプローチが必要だ、ということで、これは、今までの文系的アプローチでは全く役不足ということになるんであろうな。

【レビュアーから一言】

「愛」や「正義」というものを「脳内物質」的見地から見ると、「美しいミュージカルの楽屋裏」や「化粧を落とした美人の素顔」を見るようで興ざめなんであるが、きちんと直視しないと「本質」が見えてこないものなんであろう。なんとも味気ないことなのだが、「科学的思考」の宿命でもあるのかもしれないですね。

とはいっても、筆者によれば、こうした脳科学への傾倒も

数年前からの脳科学ブームは、一向に衰える気配を見せません。私のところには「僕の脳のタイプについて教えてほしい」「私という人間を脳科学の見地から見抜いてほしい」といったリクエストが届きます。  これは、自分の本質についてすらも「誰かに規定してほしい」という欲求の表れなのだと思います。

ということであるらしい。自らの脚で立たねばならぬ、ということであろうか。

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