脳科学者として、「サイコパス」「不倫」あるいは「毒親」といった、眉をひそめられるような人間の行動の陰に、「脳」の生物学的な働きがあることを示し、新たな人間理解の地平線を開いてくれた筆者が、今回取り上げるのは「努力」というもの。
おそらく、私たち日本人で「努力が大事」、「努力が足りない」と言われたことのない人はいないと思うのですが、その「努力」を脳科学的に解体し、努力という言葉で押しつぶされになる心を軽くしてくれるのが本書『中野信子「努力不要論」(フォレスト出版)』です。
【構成と注目ポイント】
はじめにー見返りを求めずに努力できるか
プロローグ 「努力すれば報われる」は本当か?
第1章 努力は人間をダメにする
第2章 そもそも日本人にとって努力とは何か?
第3章 努力が報われないのは社会のせい?
第4章 才能の不都合な真実
第5章 あなたの才能の見つけ方
第6章 意志力は夢を叶える原動力
エピローグ 努力をしない努力をしよう
となっていて、まず最初のところで、「努力は報われる」という成功物語や、コーチングの世界で言われることに対して、「半分は本当でしょうが、半分は美しい虚構と考えたほうがいいでしょう」という冷水を浴びせるようなところから始まります。
このあたりは筆者特有に皮肉的な表現で、「成功」には「才能」や「素質」が関係している部分があること、失敗するのは「努力不足」が原因だけではないこと、とスポーツや芸術の世界に蔓延しがちな、「努力万能」の風潮への反論と考えておいたほうがいいでしう。
本書は、そんなアンチ「努力万能論」からの「努力」という行為の分析なので、最初のほうでは
努力は人間をスポイルすることがあるということです。努力しているという感覚があるだけで、自分がすごい人間になったような錯覚を覚えてしまうのです。
であったり、
努力に中毒してしまっている人は、いったんここは負けておこうとか、いったん逃げておくと課、相手にも勝たせるけど自分も得をしようとか、冷静に巻上げることを本当に嫌がります。なぜなら、自分の行動を美しくないように感じ、得られる快感が減少してしまうからです。
といった感じで「努力」の負の側面についての言及がされていきます。ここに加えて、
江戸時代は、努力信仰が尊ばれる雰囲気ではありませんでした。・・・時代全体が、むしろ「遊ぶ」ということを尊びました。遊びというのはプラスの概念であって、教養のある人や余裕のある人にしかできない、高尚で粋なものだったのです。
として、頑張らないこと、逃走することのススメのような雰囲気をもってしまいます。
ここで、読み違えてはいけないな、と思うのは、筆者はけして目標にむかって”努力する”ことの無意味さを主張しているのではなくて
自分の人生における評価軸の設定は完全に任意なんですから、自分が一番手に向いておらず、キャラクターダンサー的存在が向いているな、と思えば、その道を選んで生きていくのは、とても賢い方法でしょう
とか
たとえすぐに、自分の才能がわからなくても、そんなに悲観することはありません、やりたいこと、つまり目標がリアルに見えているのであれば、いくつかの道標を設定し、そこにたどり着くということを繰り返しながら、目標に向かって進んでいけるはずです。
その目標がなかなか手の届きにくいものであったとしても、側道の奥のような場所にまた別の(あるいはもっと素晴らしい)目標を見つけて、それに向かって進んでいけばいいのです。
と、「自分の価値観」で、さらには「自分の速度感覚」でやっていけばいいんだ、と「努力」ということで世間や学校、家族から追い立てられる「自分」を解放しようというアドバイスととらえるべきだと思えます。
そして、筆者の脳科学者としての知見によって、「努力しているのに報われない」という感情や他人から嫉妬され邪魔されるといった現象に潜む日本人の遺伝的なものを腑分けしてあるところも興味深いですね。
【レビュアーからひと言】
本書は、本来は、日本の少子化問題の原因に、妊娠した女性や子供を育てているお母さん・お父さんを「邪魔な人」「迷惑な人」として扱ったり、特別な存在として敬遠する空気があり、その根本には「努力への過剰感」があるのでは、という推論を証明しようと書かれたものなのですが、僕としては、今回、「努力」論としてとらえてみました。
閉塞感が再び色濃くなってきた今、「努力」というものが、「おちゃらけて遠ざけるべきもの」か「生活の隅々まで浸透すべきもの」か、という両極端でしかとらえられなくなっていく気がします。もっと気楽に軽めに「頑張っておく」。そんな方向性があればいいのに、という思いでレビューをしています。
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