キリスト教を禁じた徳川家康の外交戦略の本音はどこにある?=植松三十里「家康の海」

徳川幕府の外交政策といえば、信長時代のキリスト教の布教の自由を認めた開放政策から一変して、秀吉の伴天連追放令をさらに推し進めた、スペイン、ポルトガルなどとの貿易禁止、キリスト教の禁止などの「鎖国政策」が印象的なのですが、実は徳川家康の外交政策は一律的な海禁ではなく、西欧諸国などの思惑と国内の産業振興を両にらみした柔軟さをもっていました。

戦国乱世を生き抜き、天下を統一した人物の外交戦略が、豊臣秀吉のおこした朝鮮の役で両親を失った朝鮮貴族の娘「おたあ」や貿易のため日本へ流れ着いたイギリス人で、江戸幕府の外交政策に関与したウィリアム・アダムズの目から語られるのが本書『植松三十里「家康の海」(PHP)』です。

あらすじと注目ポイント

構成は

1章 漢城から肥前名護屋へ
2章 オランダ船来航
3章 それぞれの役割
4章 征夷大将軍宣下
5章 佐渡のキリシタン
6章 発端はマカオから
7章 伊達政宗への疑惑
8章 はるかな夢

となっていて、冒頭は、本編の語り手の一人である「おたあ」が祖国の李氏朝鮮の漢城で、豊臣秀吉の派兵軍の兵士によって両親を殺され、小西行長によって保護されるところから始まります。彼女は、その後、小西によって日本へ連れていかれ、キリシタンでもある奥方によって養育されることになります。

そして、もう一人の語り手「ウィリアム・アダムズ」の登場は第二章からです。冒険と富を求めて、母国イギリスに妻と息子を残して、極東への航海にでた彼は、乗船していた「リーフデ号」で、多くの病人を出しながらも、九州の豊後に辿り着き、スペインの敵国船であることに興味を抱いた徳川家康の紹介されたことをきっかけに、家康の通訳兼外交顧問として雇われることになります。

当時、スペインやポルトガルの宣教師は、リーフデ号の常飲を「海賊」だと主張し、処刑するよう豊臣秀頼に進言していたそうですから、家康に見出されたことは幸運だったといえます。さらに、この漂着の時期が関ケ原の戦の半年前であったことも、家康が上方側と異なる対応をさせた遠因であったかもしれません。

そして、このリーフデ号の乗員を保護し、壊れた船の修繕も支援。さらには積荷も買い上げたことで、船長のヤン・ヨーステンたちが家康側に味方することとなり、九州を中心としたキリシタン大名たちが石田三成ほかの西軍ではなく、家康の東軍になびい誘因となったことは間違いないですね。

しかし、家康の率いる東軍の勝利は、朝鮮貴族の娘「おたあ」の養父。小西行長の順風満帆だった人生を失墜させることとなり、行長の刑死後、おたあは家康に引き取られ、家康の側室「阿茶の局」の侍女となることとなります。

そして、思いもかけず、天下統一を目の前にした徳川家康に使えたり、側室の近くにいることで、家康の「対外戦略」を間近で見ることになった二人なのですが、それは、スペイン・ポルトガルという二大カトリック教国と鋭く対立するイギリス・オランダといった新興プロテスタント教国の、極東アジアでの対立を利用して、銀を抽出するアマルガム法といった最新技術を導入しようという徳川幕府首脳陣の動きであり、キリスト教が日本国内に信者を増やしていく情勢に危機感を覚える、家康の知恵袋でありつつも仏教界の大物である金地院崇伝、あるいは、二代将軍・秀忠を失脚させて、実権を握ることを企む伊達政宗などの外様大名の動きなど、複雑な政治的な思惑のぶつかり合いを見ることでもあります。

さて、ウィリアム・アダムズとおたあの二人の目を通した、スペインからイギリス・オランダへと重心を移したり、キリスト教の禁止へと動いていく、徳川家康の外交戦略の真の狙いは何だったのか・・といったあたりを原書でお楽しみください。

レビュアーの一言

キリスト教の禁令は、徳川家康の独自戦略ではなく、豊臣秀吉の伴天連追放令の延長戦にある政策だと思われるのですが、その治世のはじめに、一向一揆でイタイ目を見た家康が、宗教的な動きにナーバスであったのが間違いないと思われます。

さらに、本書にでてくるように、キリシタン大名による「長崎寄進」といった実例がありますので、スペインがキリスト教布教によって、日本をキリスト教国化して、実質的な支配を狙っていた、というのはあながち「デマ」ではないような気がします。

隠れキリシタンの弾圧や、島原の乱におけるキリシタンの処刑は、「悲史」として語られることが多いのですが、キリスト教国の侵略に対抗した徳川幕府の祖国防衛戦争の結果という側面もあった、と考えてもいいかもしれません。

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