豊臣秀吉の対外侵略戦争の狙いは何?=門井慶喜「なぜ秀吉は」

中大兄皇子の白村江の戦や、第二次世界大戦前の朝鮮半島侵攻と並んで、日本と朝鮮半島の国との間に大きな亀裂をもたらしたのが、豊臣秀吉による朝鮮侵攻となる「文禄・慶長の役」です。

15万もの大量の兵員を動員して、戦果と言えるものは獲得できなかったこともあって、豊臣政権が秀吉の死後、大きく揺らぐ原因ともなった対外戦争なのですが、秀吉がなぜこの戦争に踏み込んでいったのかは、諸説あって、まだ定まったものはありません。

この歴史の謎ときに挑んだのが本書『門井慶喜「なぜ秀吉は」(毎日新聞出版社)』です。

あらすじと注目ポイント

構成は

1 すべては大坂より
2 堺が博多か
3 焦燥
4 追放
5 名護屋
6 出兵
7 到着
8 なぜ秀吉は

となっていて、物語は大和郡山城から大坂城を目指す豊臣勢の行軍に、筆吉の命を狙って一人の子供が忍び込み、捕まるところから始まります。この子供は朝鮮から渡来した、焼きものづくりを生業としている「カラク」という名の男の子なのですが、彼に向かって、秀吉が、もうすぐ朝鮮へ討ちいるので知り合いに触れまわれと命じて、そのかわり命を助けて解き放ちます。このカラクを取り巻く人物たちが、秀吉の「朝鮮出兵」の真意をあれこれと探っていったり、推理したり、というのが物語の大筋の流れです。

まず一人目は、「神屋宗湛」という博多の大商人です。彼は、大友、竜造寺、毛利、島津と支配層がその時の勢力の伸長で大きく変わり、安定した経済的発展ができなかった博多を、秀吉の力によって復興しようと計画しています。

そのため、秀吉の朝鮮侵攻と基地となる、出陣する港を「堺」ではなく「博多」に誘致しようと、秀吉だけでなく、その弟の秀長などの有力者に接近します。その彼が着目したのは、室町幕府以来絶えている「勘合貿易」で・・ということで一番目の推論が展開されていきます。

二番目の人物は、イタリア出身のイエズス会の宣教師「オルガンティーノ」です。

彼は、41歳のとき、布教のため来日し、それから二十年間、滞在しているのですうが、当時としては老齢にさしかかったろころで、秀吉による「伴天連追放令」という宣教師の国外追放とキリスト教の禁教を命じた措置に直面します。

彼はキリスト教徒で保護者である高山右近や小西行長らに保護されて、日本にいることができているのですが、彼は、秀吉が突然、キリスト教の禁止に踏み切ったのは、彼の師であるコエリョが秀吉に見せた「フスタ船」ではないか、と推理しています。その対戦能力の高さとそこに秘められたスペインなどの南蛮諸国の政治的意図に気づいた秀吉が・・という推理ですね。

三番目の人物は、後に豊臣家を潰して江戸幕府を開いた「徳川家康」です。彼は、秀吉の朝鮮出兵の意図に大賛成であるかのように、出兵の根拠地となる九州北部の「名護屋」に、拠点となる大きな屋敷を二つ造成しているのですが、そこには、秀吉へのおべっかとともに、秀吉亡き後、天下の権をわが手におさめる布石としての、他の大名たちへの自らの威勢の盛大なアピールでもあります。

家康の目からすると、朝鮮・明の征服など失敗間違いなしに見えるのですが、それでもあえて秀吉が踏み切ったのには、彼の自らの死後を見据えた日本統治体制の強化ではないかと推理し、直接、秀吉に確かめようとするのですが・・という筋立てです。

そして、最終番に向けて、最初にでてきた「カラク」と、彼の憧れの女性でもある、越前の国人「通守家」の出身で、お茶々の北ノ庄時代に侍女であった「草千代」が、秀吉が家康を饗応するために催した「猿楽」の席に忍び込んで見つけたものと、宴が大騒動のうちに終わった後、秀吉の脳裏をよぎったのは・・という展開です。

レビュアーの一言

秀吉の調整出兵の真意の推理としては、本巻ででてきた「勘合貿易説」「キリシタン諸侯排斥説」「国内集権化の促進説」のほかに、単純な「領土拡張説」や「元寇復讐説」、「東アジアの新国際秩序構築説」などがあって、百家争鳴といった状況です。

さらには、秀吉にはさほどの動機はなく、主君であった信長のアイデアを盗用して実行したのだ、という信長びいきの説までありますね。

まあ、何が正しいかは、すでにこの世にいない秀吉の頭の中にしかないわけですから、自由に考えを巡らして楽しんでみてはいかがでしょうか。

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