茂兵衛は北条攻めに従軍し、北条氏規の命を助ける=井原忠政「小田原仁義 三河雑兵心得」

三河の国の、まだ小国の領主であった松平(徳川)家康の家臣団の最下層の足軽として「侍人生」をスタートさせた農民出身の「茂兵衛」。吹けば飛ぶような足軽を皮切りに、侍としての出世街道を、槍一本で「ちまちま」と登っていく、戦国足軽出世物語の第十二弾が本書『井原忠政「小田原仁義 三河雑兵心得」(双葉文庫)』です。

前巻で、戦国で一二を争う「表裏比興の者」真田昌幸の長男・真田信之へ於稲がへ嫁ぐ護衛役を務め、北条家だけでなく、真田家とのつながりもできた「茂兵衛」だったのですが、今巻では、いよいよ天下統一を完全なものとするため、関東征伐を始めた秀吉軍と呼応した主君・家康に随行して北条攻めに加わる姿が描かれます。

あらすじと注目ポイント

構成は

序章 開戦前夜
第一章 山中城の落日
第二章 奇妙な戦場ー韮山城攻め
第三章 七郎右衛門からの書状
第四章 戦後処理
終章  再会

冒頭では北条方の領地内の箱根山中を、敵の前線拠点となる山中城の偵察のために、猟師に変装して潜入している茂兵衛一行の姿から始まります。山中城は箱根山の西山腹にある山城で、現在は公園(山中城跡公園)として整備されています。HPをみると北条の築城術の特徴である空堀の中に障子のような堀残しの障壁を設けた「障子堀」もきれいに残されているようですね。

茂兵衛たちはその風貌を活かして猟師に扮したわけですが、見事に猟師そのものであったため、山中城の北条兵に城内へ連行され、北条方の兵士として徴発されてしまいます。このおかげで、おおっぴらに城内の様子を調べることができ、徳川勢に帰還してから、秀吉の幕下に呼ばれるなど面目を施すことになるのですが、ここで豊臣政権下の激しい「功名争い」を間近で見る事ともなります。

この後、茂兵衛は百人隊の鉄砲組を率いて、井伊直政隊とともに山中城攻めに加わるのですが、竹束を楯に使って、じわじわと攻め上る戦術で、ひたすら突進して死屍累々となっている豊臣秀次隊との違いを鮮明にしています。戦場の場数では、秀次率いる畿内兵たちも、茂兵衛たち三河兵にひけをとらないはずなのですが、「官軍」である驕りが隙をつくっているのかもしれませんね。

そして、注目しておきたいのは、宮下英樹さんの「センゴク」では、攻城兵が落ちたら容易に這い上がれず、城からの鉄砲の連射で死体の山を気づいていた「畝堀」や「障子堀」がそんなには機能していないことですね。数千の兵には効果をみせても、城を何重にも取り囲む大軍による攻撃には、籠城戦は通用しない、ということなのだと思います。

そして、義弟・辰蔵に手柄を立てさせるため、落城が迫った山中城内に茂兵衛と辰三は三十郎と富士之介の二人の郎党だけを連れて一番乗りをしようと試みるのですが・・という展開の結末は原書のほうで。

なかほどの「韮山城」攻めでは、城の守将が、家康と今川の人質時代からの仲良しである北条氏規であることから、城を攻め落とさず、なんとか氏規に降伏・開城させるよう、家康から厳命が下ります。茂兵衛が以前、徳川方と北条方の交渉の宴席で、氏規に家康の起請文を渡す役目をしたことから見込まれたようなのですが、茂兵衛にしてみれば、その時一度だけの対面で、かなり荷の思い役目なのですが、茂兵衛がこの役目を引き受けたことが、北条が秀吉に降伏した後、活きてくることとなります。

少し後の時代になるのですが、北条宗家が滅んだあと、氏規の息子によって北条家は大名に復帰しており、その前提条件となる氏規の助命の茂兵衛は大きな役割を果たすこととなります。

ただ、氏規の降伏・開城といっても、氏規が武士の名分を立てるため、他の支城よりさきに降伏しないと頑くなになり、さらに豊臣方の福島正則たちは功名を立てるため、城への攻撃をやめようとせず、といった状況で、なかなか茂兵衛の思うような構図にはなっていきません。そこで茂兵衛のこうした手は・・というところは原書のほうで。

後半では、北条攻めも決着し、秀吉の天下統一が完成するわけですが、その兵力を警戒された家康は、東海地方から関東地方、それも江戸への転封を命じられ、さらに、家康の旧臣である大久保忠世が秀吉に通じているのでは、という疑いも出たり、茂兵衛は最後の場面で死んだと思っていた過去の女性と出会ったり、と次巻以降も紛争のネタには困らなそうです。

レビュアーの一言

今回は「北条攻め」が主テーマとなるのですが、たいていの戦国ものでは小田原城攻めか、豊臣秀吉の作戦を授けられた石田三成を最後まで嘲弄した「忍城」の戦いがとりあげられることが多いのですが、今回は地味ながらも、この戦の分岐点ともいえる「山中城攻め」と「韮山城攻め」がとりあげられています。緻密な城の設計と万全の守りを固めながらも、七万の軍勢の前にわずか半日で落城させられてしまった山中城に対し、豊臣方四万の軍勢の攻撃から四千の守兵で、韮山城を6か月間、守り抜いた氏規の将才はかなり優れたものだった、といっていいですね。

韮山城は、その後、家康の家臣・内藤信成が領したのですが1601年に駿河城への転封の際に廃城となっています。ただ、その後も韮山代官の御囲地となったため、戦国時代の遺構となる曲輪や土塁の跡が残っているようです。

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