与一郎は秀吉配下の「馬廻衆」となり、長篠で武田武者を射落とす=井原忠政「長島忠義 北近江合戦心得(三)」

織田信長に攻め滅ぼされた近江の戦国大名・浅井長政の家臣で弓の名人であった主人公・遠藤与一郎が、主家の滅亡後、信長の家臣・豊臣秀吉の足軽となり、浅井家再興のために、心ならずも信長の天下統一に力を貸していく、お家再興物語「北近江合戦心得」シリーズの第3弾が本書『井原忠政「長島忠義 北近江合戦心得(三)」(小学館文庫)』です。

前巻では、越前朝倉家の滅亡後、国の情勢が危さを増してきていた越前に偵察に入って、代官の桂田長俊の不人気さと彼を国人侍・富田が討ち、さらのその富田も加賀の一向一揆の手勢に滅ぼされるところを見届けた後、今度は伊勢長島での織田家の一向門徒が「根切り」される場面に遭遇した与一郎だったのですが、今回では、戦国の勢力地図が、織田信長やその後継者へと塗り替え、戦国の伝統勢力の退場がまじかいことを明らかにした「長篠の戦」に従軍します。

あらすじと注目ポイント

構成は

序章 主人の心得
第一章 風雲は東から
第二章 岡崎城下の暗殺
第三章 設楽原の野戦陣地
第四章 越前 鎧袖一触
終章  主人道修行

となっていて、冒頭で与一郎たちは、長島の一向一揆の鎮圧後、加賀一向一揆の勢力を背景に、越前から織田よの守護代などを追い出した越前一向一揆の討伐に早晩、信長が乗り出すはずという秀吉の予測から、藤高虎たちの手勢とともに越前に潜入しています。

この地では、加賀一向一揆勢から派遣されてきている坊官たちの狼藉ぶりを耳にし、越前の民衆から一向一揆勢が嫌われ始めている、という良い情報も手に入れるのですが、一方で、与一郎が越前を離れることを聞いて自分を捨てたと思い込んで、一揆側に走った乳母の娘・於弦が、一揆側の頭領の一人で府中郡司の七里頼周の妾となっているという情報も手に入れることとなります。

七里頼周はもともと本願寺の下級武士であったのを本願寺顕如に見いだされて坊官となり、加賀の一向門徒の指導にあたっていた坊主で越前への一向一揆の侵攻に功績があったのですが、その粗暴で非道なふるまいから門徒衆からも批判の多かった人物ですね。

おそらく、於弦の美貌に目をつけた頼周が地位にものを言わせて無理やりに、と思われるのですが、果たして事情はそんなに単純では無そうなことが物語の最後半でうかがえます。

ただ、物語のほうはこうした与一郎の恋愛事情とは別に思わぬ方向に発展していきます。というのが、大坂の石山本願寺勢と手を結んでいる、織田の仇敵・武田勝頼から、武田軍は徳川家康の長男・信康に仕える大賀弥四郎の内応で岡崎城を乗っ取るため五月に三河に兵を出すので、越前一向一揆勢も同時期に北近江に押し出してほしいという届いたのです。

周囲を敵で取り囲まれている織田軍の唯一の味方といえる徳川軍を中から崩壊させかねない話に、あわてて与一郎たちはその情報を秀吉に伝えます。秀吉もあわてて、与一郎を同道させて信長に注進するのですが、そこで秀吉に下された命令は、「大賀弥四郎の謀殺」です。この役目が弓の名手で、毒矢の使い方を於弦に学んだ与一郎におりてきて、という次第ですね。

与一郎がこの役目をどうこなしたか、は原書のほうでお読みくださいね。こちらからは、この手柄で織田家の刑場に忍び込み、浅井長政の嫡男・万福丸の首を盗み出した罪を許され、織田家に召し抱えられ、秀吉の馬廻衆へ抜擢されることになります。

そして、この大賀弥四郎の早期の謀殺によって、岡崎城への出兵の機会を失った武田勝頼は動員した二万の大軍の矛先を長篠城の奥平貞昌攻めへと変更します。国人侍や地方領主の推戴の上にのっかている勝頼としては、田植え時期に動員させた兵士をいまさら見返りもなしに解散させることもできず、こうした奇手に打って出た、という作者の推理で、この「奇手」が勝頼はじめ武田勢にはその後の滅亡につながる「大悪手」の第一歩となってきます。

巻の後半では、長篠城攻撃に矛先をかえた武田軍が、徳川の酒井隊の背後からの攻撃にあぶられるように「設楽原」へと誘導され、信長勢の設置した「馬防柵」とその後ろで手ぐすねをひく鉄砲隊と弓隊によってシューティング・ゲームのようにうち滅ぼされていくようすが描かれます。武田を煽り立てた徳川勢でも、一挙に大兵力を失った敗軍となった武田勢でもなく、馬防柵のすぐ後ろで武田の騎馬隊の圧力を跳ね返した織田の足軽・鉄砲隊の様子をお楽しみください。

最終盤では、設楽原で武田軍の主力を壊滅させた織田軍はいよいよ越前一向一揆のせん滅に乗り出します。与一郎は、秀吉の馬廻衆に召し抱えられたときは二百貫だった俸禄も今回の戦で四百貫に加増され、さらに戦場や敵地を動き回り表裏どちらの役目もこなす「使番」に役替えして参陣しています。主君の近くでの防備が主の「馬廻」より、そちらのほうが直情径行の彼にとっては向いていそうですね。

そして、8月14日に越前へ出兵した織田軍は、武田軍を撃破した勢いと、門徒衆に嫌われている坊官たちの不人気もあって、わずか4日間で府中城や火燧城、虎杖城を攻め落とした上に、鳥羽城を落とし、大野地域を征服し、越前の一向一揆勢力を追い落としていくのですが、当然、一向宗嫌いの信長が最終的に行ったのは・・という展開です。

一説には、一揆衆は1万2千人余りが打ち取られ、奴隷として3万から4万余りの民は尾張や美濃に奴隷として送られたという話で、1932年に越前市の小丸城跡で発見された瓦には、前田利家が一揆衆千人を磔・釜茹でにした、という書置きも残されているそうです。

レビュアーの一言

本巻で与一郎の家臣で山賊あがりの武原弁造がマスターしようとしているのが「大筒」の技術です。「大筒」とは30匁=112.5g以上の大きな弾丸を扱うものを総称していて、最大のものでは1貫目(3750g)クラスのものもあったようです。

その一発の威力はものすごく、天正17年、伊達政宗と芦名義広の摺上原の戦では、芦名方の武者がこれを使い、伊達方の先陣の三騎の武者を一発で撃ち落とした、という記録が残っています。

この大きさの弾丸を発射する銃(もはや「砲」に近い・・)となると、重さも発射の反動も相当なもので、西洋では台座や車台に乗せて使用するのが通常であったようですが、日本では手に抱えて発射し、1674年(延宝2年)、関流砲術師・関昌信は850匁(3.19g)の弾丸を3000m離れた標的に打ち込んだという記録もあるようです。このあと、弁造の修練が進めば、与一郎の隊は、与一郎の毒矢による狙撃の腕とあわせて、秀吉軍きっての銃撃隊となるのかもしれません。

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